理性は万能ではない

 どうして宗教が必要なのか。私たちはどうして大いなる者、神の声を聞かなければいけないのか。それは、人間は賢そうに見えても賢い動物ではないからです。

 昔は「理性万能」といって、人間は勉強すれば何でも知ることができる、この理性が最も賢明であると考えられました。しかし、はたして人間の理性というものは賢明でしょうか。戦後になると、人間の理性は必ずしも賢明ではないと考えられるようになりました。理性が万能ならば、何ゆえあのようなバカバカしい戦争をやったのか。何ゆえ600万人のユダヤ人を虐殺するようなことをしたのか。こんな反理性的なことをするのは、理性が無力であるという証拠です。

 ですから私たちの信仰にとっては、「わが羊はわが声を聞く」と言われるように、私たちを最善のところに導こうとされる神の御声を聞くことが大切なのです。

 イエス・キリストは「天の父なる神は、あなたがたの髪の毛一本一本までも数えておられる」と言って、人間以上の偉大な存在を示された。そして、「あなたがたの父なる神は、求めない先から、あなたがたに必要なものはご存じなのである」(マタイ伝6章8節)と言われ、「主の祈り」を教えられました。その中に、「御心の天に成るごとく、地にも成らせたまえ」(10節)とあるように、私たちにおいて祈るということは、自分の願いを神様に押しつけることではありません。

 「神様、あなたはすべてをご存じですから、私の願いよりもあなたが与えようとしておられる、その最善を知りとうございます」と祈ることです。自分の願いを願うよりも、自分を愛して、より高い立場から自分を見ていてくださるお方の願いに聞いて従うこと、これが信仰です。

生ける神と共に生きる

 ところがある人は、「人間は自主性をもたなければならない。他の者の意見に左右されたり、何かに服従して生きるのは嫌だ」と言います。これは、「従う、服従する」ということは悪いことだと考えるからです。

 しかしどうでしょうか。オルガンを弾くのに、オルガンの法則に従わなければ弾くことができません。また、交響楽団が演奏をするときに、指揮者の指揮に従わないならば、交響楽ができるでしょうか。管楽器、弦楽器などいろいろな楽器がありますが、みんな指揮者に従って弾きます。それぞれは精いっぱい弾いていますが、一つの大きなハーモニー、調和を成しております。

 ですから、自分勝手にやるといっても、何事も一つの条件があるのであって、それに従わないでやりましても、決して成功するものではありません。

 聖書を読むと、キリストは実に事ごとに神の御声を聞いて、御旨に従って歩いておられます。そして、驚くべき、素晴らしいことをやってのけられた。私たちにはどうしてできないのだろう、と感じます。それは、神様が今も生きて祈りを聞いてくださる、ということに疑いがあるからです。神にほんとうに従って、聖書に「福音とは神の力である」「神は祈りを聞きたもう」と書いてあることを身をもって示す人が出ないことには、実態がわからないのです。

 先日、伝道旅行から帰ってこられた牧師のHさんは、「ほんとうに私は感謝です。行く先々で、キリストがありありと働いてくださいました。私のような者が手を按いて祈っても、ひどい病気がケロッと治るのです。また、神の示しに従うと状況がガタンと変わるのです」と言われます。どうしてHさんが、あちこちで素晴らしい働きをなされるようになったか。それは、霊的な実在を知ったからです。それに従うことが力であり、真理であることを知ったからです。

 何ゆえ宗教において信仰が衰えて、神学とか哲学というものが盛んになるのかというと、神を信じているといっても、ありありとした宗教生活の喜びが湧かないからです。神は現実に生きて働き、私たちを愛し、導き、守る、よき羊飼いのようなお方であるのに、それが信じられず、「神は在る、と聖書には書いてあるから在るはずだ。神とは何か?」と神についての説明や教義、道徳などが信仰に取って代わる。だが、それらと一貫して戦ってきたのが、この聖書です。

 私たちの仲間で、道徳が語られたり、宗教哲学が高唱されたりするときには、「ノー」と言って戦い、「生ける神」を私たちは叫ばなければならない。生ける神に導かれることが、いかに幸いであるかということを知らなければならない。これは、理性がいちばん尊いという考えに対する私の反撃であり反抗です。神の霊が理性以上のものであるということを示すためには、どうしても私たちが神に聞いて、生きて歩いてみせなければならないのです。

不思議な祝福にあずかるには

 「御心の天に成るごとく、地にも成らせたまえ」(主の祈り)と祈れよ、と主イエスは弟子たちに教えられたが、普通の人は神の御心を求めたりしません。それが何かわからないからです。

 先日、20~30年も信仰している方が、「先生、神の声を聞くということは、どういうことでしょうか。どうして、神が私に語りかけることがわからないのでしょうか」と言います。それで、「あなたが従おうとしないからです」と言いますと、「神様が御思いを全部示してくださるならば従うのですが……」と言う。

 「神様が全部を示されるならば従う、などというのは思い上がりだ。初めからずっと先の曲がり角を示されたりしたら、怖くて従えませんよ。あなたの信仰の悪い癖は、事ごとに神に聞こうとしないことだ。また、神の声を聞いても従わない。1歩従わない以上、なんで2歩目、3歩目を神様が教えるもんか。羊と羊飼いの関係を見てごらん。羊は何にも知らないけれども、1歩1歩、ただ羊飼いに従ってゆくだけだ。そのように1歩1歩、羊飼いであるキリストにほんとうに信頼して従う。これが信仰だよ」と言ったことでした。

 誰しも、「私はどうすべきか、神の御声を聞きたい。しかし神様の答えがはっきりしない」などと言います。私も昔はそうでした。しかし最近は、そういうことで苦しむことはありません。私が神様に従おうとさえ思えば、神様は最善を示したもうということを知るからです。

 信仰とは従順ということです。それは戒律に従うこととは違います。ひと声ひと声、神に伺い従ってゆくことです。そのような神の知り方をしている人の信仰は恵まれます。「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(ヨハネ伝10章10節)とあるとおりです。

よき羊飼い

 「わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる。羊飼いではなく、羊が自分のものでもない雇い人は、おおかみが来るのを見ると、羊をすてて逃げ去る。そして、おおかみは羊を奪い、また追い散らす。彼は雇い人であって、羊のことを心にかけていないからである。わたしはよい羊飼いであって、わたしの羊を知り、わたしの羊はまた、わたしを知っている。それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである」
(ヨハネ伝10章11~15節)

 12節に「雇い人」とありますが、雇い人は自分の利益のために働くものです。牧師の中にも、神学校を出て、牧師になって飯食おうと思っている者がいる。一生損してでも、キリストのために生きようと思って牧師になる者は、なかなかいません。雇い人は、自分の利益のために働いていますから、何か事が起こると羊を捨てて逃げてしまう。羊のためには生きません。だが、よき羊飼いは羊のために命を捨てる。ここに本当の羊飼いと、そうでない者との違いが出てきます。

 これは幕屋でも同じです。真にキリストの御心をもって導いている伝道者と、そうでない人ははっきりわかります。自分が偉くなるため、自分の都合で生きている伝道者は、困難になるとすぐ逃げ出します。これは自分のためを思うからです。

よき羊飼いの像

 「よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」。雇い人は、何か狼のような悪魔的な、凶暴なものが掠(かす)めに来ると逃げ出す。自分の一身の安全が先に立つ。伝道をする者は、いくら説教が上手で講義がうまくても、羊のために立派に死んでゆけるかどうかが問われるのです。これは人に言うことではありません。手島郁郎自身に言い聞かせつつ話しているのです。

 この羊飼いと羊との関係、これはまた、キリストと私たちの関係です。キリストは、私たちのために血を流し、命を削ってでも生きておられる。そのことを思うと、私がどうして命を捨てずにおられましょうか。

(1963年)

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