今日はヨハネ伝10章7節から読んでゆきます。ここでイエス・キリストは、神様と私たちとの関係を羊飼いと羊との関係に譬えておられますが、ヨハネ伝もこの辺まで来ると、キリストの宗教が何であるかが最もよく示されています。この書の要点は、「わが羊はわが声を聞く」といって、神は人間に語りかけたもうお方である、神と人間は「我と汝」と呼び合うような人格的関係にある、ということを高唱しているところにあります。実に宗教は、かくのごときものでなければなりません。そうでなければ、宗教でないものが宗教の代用物として幅を利かしだします。

 神様が活き活きと感じられないときに、人は神の実在を疑います。また、神が事ごとに実際問題に適切な指導をされることを知らないと、「神の御心はこうだろう」と人間の側から結論をつけて、信仰は一つの原理、道徳というものに堕落してしまう。宗教に霊的生命が衰えると、いつもこうなるのです。私たちは、それらのことと戦わなければならないのです。

キリストは生命に至る門

 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」
(ヨハネ伝10章7~10節)

 イエス・キリストは「わたしは羊の門である」と言われました。これは物質的な教会堂の門や、どこかの教派の門のことではありません。キリスト教会に行ってその門をくぐれば救われる、と思うならばとんでもない間違いです。ここでイエスが言われるのは、見えない、霊的な門です。

 「わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」とあるように、キリストという門をくぐるときに、豊かな霊的な糧を得ることができる。そのためには、「わが羊はわが声を聞く」と言われるように、キリストの声に聞いて生きることが大事です。

妙なる道標の光よ

 聖書の宗教は、神という私たちを導くお方がおられることを強調しています。羊は羊飼いに導かれてゆきます。砂漠の彼方には緑のオアシスがあるかもしれないが、羊自身はよく知らない。けれども、ひと足またひと足と導かれてゆくと、ついによき所に行くことができるというのです。

 私が昔から好きな賛美歌に、次のようなものがあります。

妙なる道標(みちしるべ)の光よ
家路も定かならぬ闇夜に
さびしくさすらう身を
導き行かせたまえ

行く末遠く見るを願わじ
主よ わが弱き足を守りて
ひと足またひと足
道をば示したまえ

J・H・ニューマン
(1801〜1890年)

 作詞者のジョン・ヘンリー・ニューマンという人は、19世紀のイギリスで天才といわれるくらい優秀な神学者で詩人でした。英国国教会の信仰復興と改革に尽力しましたが、それに飽き足らずにカトリックに移り、枢機卿にまでなりました。彼は頭脳が抜群に優れていましたが、同時に大いなる神の前に敬虔な人でした。

 「主よ、わが弱き足を守りて、ひと足またひと足、道をば示したまえ」とありますが、頭のよい人は自分の考えに任せて物事に処したらいいと考えやすい。だがニューマンは、ひと足ごとに大いなる者に導かれなければ人間の知識は全きを得ない、という信仰をもっていました。有数の思想家であったニューマンですらそうならば、私たちはもっと神に聞かねばなりません。

神なき唯物的な時代

 今のキリスト教を考えてみると、キリストの御声を事ごとに聞きながら生きる、という信仰生活を、ほとんどのクリスチャンは送っていないと思います。それはどこから来るのか。一つは今の時代が非常に唯物的で、「神が人間に語りかける」ということが信じられていないからです。20世紀の特徴は、神の存在など認めない唯物論が非常に横行していることです。ソビエト連邦や中国のように、唯物論で立つ国が世界の大国として現れてきました。

 マルクスの唯物論というのは、歴史にしても文明にしても、すべてのことがらは客観的な科学と同様な法則によって発展を続けてゆく。社会を発展させるのは物質的な生産力や経済であって、社会の中にある矛盾が大きくなってくると、全く新しい社会秩序が生まれる。たとえば、資本主義社会の下で資本家に富が集中し、労働者が貧困に喘ぐと、ついに彼らは立ち上がって革命を起こし、共産主義社会を実現する。これが歴史の必然である、というものです。その思想の影響を受けた人々は、「世界がそのように進むと決まってしまっているなら、なるようにしかならない」と考えるほかありません。

ドラマチックな神の導き

 しかし、宗教の世界はそうではありません。この社会、宇宙、人生には一つの大きな計画、目的があって、それに向かって進んでゆき、その目的を成らせることに意味がある、と考えます。必然的にこうなる、というものではない。私たち人間の側は何も知らないけれども、もっと大いなる存在が背後にあって、それを成させようとしておられる。その目的を達成するためにどうすべきかを問うところに、宗教があります。

 現代では、だんだんこういう考え方は衰えてしまっています。それで、国も民族もそれぞれの方針や計画に従って勝手に歩きますから、至るところで衝突します。個々の人間も何に向かってゆくのかわからず、無計画にむちゃくちゃに歩くので壁に突き当たります。

 神を知らない多くの人には、すべての物事は偶然から偶然に進むのであって、自分の思いを超えたことが起こっても、単なる偶然としか映りません。しかし、私たち神に導かれる者には、「偶然」というものはない。それは神の御心が成ることなのです。

 賀川豊彦先生は、「世の中に偶然というものは決してない。偶然に見えるのは、その背後にある存在を知らないからだ。劇の舞台には、背後に舞台監督がいて一つの筋書きがある。それがあまりに劇的なドラマであるから、観客は『まあ!』と言ってその劇に驚くけれども、背後で監督をしている者には偶然ではない。そのように、世の中にあるすべては、神様があるご計画に従ってそうなるように導いておられるのだ。神を知らぬ人には偶然と見えることでも、神様の心、神の立場に立って物事を見る人にとっては、すべては偶然ではない」と言われたことがあります。

 物は見方です。立場を変えて、「すべては偶然でない、自分を導いているものがある」と思うならば、私たちは確信をもって生きることができます。

賀川豊彦(1888~1960年): 大正・昭和期のキリスト教伝道者、社会運動家。不遇な少年時代を過ごす中で、キリスト教宣教師に触れ、回心。イエスの歩みに倣い、貧民窟で伝道。その後、貧困や労働の問題に取り組む。日本の生活協同組合運動において重要な役割を担った。

(1963年)

※「ひと足ひと足導きたまえ 第2回」はこちらをクリック