トーラーの真義

このような人は主のおきてを喜び、
昼も夜もそのおきてを思う(口ずさむ)。
(詩篇第1篇2節)

 「おきて トーラー」というヘブライ語は、律法であるよりも、「指図 direction ディレクション」または「諭し instruction インストラクション」と訳すべきです。道徳律ではなく、日常の実際生活の指針、当面する問題に対して囁かれる神の指図の意味です。神の囁き、神のお指図であるこのトーラーを口ずさむことこそ、千万の金銀に勝ります。神は人や情況によって違った指図をなさいます。それを記したものが旧約聖書ですが、これを誤って『六法全書』でも引くように、律法として現在の自分にしゃにむに適用するなら、かえって苦しい戒律の束縛となるのは当たり前で、これは「トーラー」の重大な誤用です。

 「思う ハガー」という語は、「繰り返して口ずさむ」という意味です。主なる神霊の囁きがあまりに嬉しく、その実際的なお指図が適切で希望に満ちているので、朝な夕なに繰り返し口ずさみ、反復して自身に言い聞かせては喜ぶのです。

 また、突然ひらめく神の囁きは、サーチライトのごとくに一瞬、心を照らします。自分の心に映ずるイメージを消さぬよう幾度も口にとなえ、心に牢記することが大切です。私がなぜ祈誓表というものをここで差し上げたかというと、新年にまず清められた気持ちになってキリストを見上げ、「主よ、私は何をいたしましょう。教えてください、お指図ください」と祈る時に衝き上げてくる思いを書きつけるためです。そして、「この祈りを今年実施しましょう。また一生涯かかって、こうした生き方をします」と祈っていったら必ず成ります。困難があっても必ず成ります。

このような人は流れのほとりに植えられた木の
時が来ると実を結び、
その葉もまたしぼまないように、
そのなすところは皆栄える。
(詩篇第1篇3節)

 この詩の書かれたパレスチナは荒涼たる砂漠地帯ですが、川のほとりにだけは青々と木々が茂っています。神の生命の流れのほとりに育つ私たちに、神の御声はひたひたと心にしみ入るように語られ、その生命に潤されつつある間に、だんだんと魂が成長し、そのなすところは皆栄える。この「栄える ヤツリアッハ」は、結果がうまくゆく意味です。どんな困難があっても乗り切り、突破してついに志を貫徹し、成功することをいうのです。この聖霊の場で祈誓した年頭のイメージが実現し、年末にクリスマスを迎えたら、「今年はこの詩篇のとおり、神の指図に従って行動したので、ことごとく成功だったなあ」と言って、神の栄光を仰ぎ合おうではありませんか。

道に迷う罪

悪しき者はそうでない、
風の吹き去るもみ殻のようだ。
(詩篇第1篇4節)

 悪しき者といっても、何も決定的に「善人」と「悪人」というものが存在するのではない。神の囁きに従って生きないから、あっちにぶらぶら、こっちにぶらぶらするばかり。外側はクリスチャンでも聖霊の中身をもたぬなら、もみ殻と同じで何らの実りもなく、麦を脱穀する時に風で飛ばされるもみ殻のように、風の吹き去るままに行き着くところは破滅以外にない。

 「悪しき者 レシャイーム」「罪人 ハタイーム」という言葉が、詩篇には何度も繰り返し出ているが、何か道徳や善悪の倫理を問題にしているのではなく、人間の歩みに2つの道があることをいっているのです。1つは正しい道、神の義の道、もう1つは正しくない罪の歩み、嘲る者の悪の道です。正しくない道を歩いたら、どれだけ馬車馬のように働いたって、ついに目的地に達せず、風に吹き去られるもみ殻のように空しい努力が続くばかりです(「罪 ハター」は目標を失って道に迷うこと、「的外れ」を意味する)。神の義の道はその反対に、神に指図されて、ほんとうに栄えて目的を達成する。この意味で、「善」とか「悪」とかを、詩篇は論じているのです。

 去年の初めのこと、私は祈っていて霊界に没入するような経験をもったことでした。私は薄暗い高低のある山や谷を上ったり下りたりしていました。「暗いなあ、疲れるなあ、もうずいぶん歩き進んだのに……」と思って、ふと辺りをよく見ますと、なんとぐるぐると同じ所を歩いていたのでした。その時、天使が「見よ、おまえの努力はほとんど実っていない。今年、ほんとうに自分の信仰を進めようと思ったら、自分勝手に歩くな! よく後ろ辺で語る者の声(聖霊の指図)を聞いて、そこがどんな山坂、死の陰の谷であっても進みゆくのだ。1年後振り返ってみたら、おまえがどれだけ進歩し、理想に近づいたかがわかる」と囁くのが聞こえました。

 「天国の地形は複雑だ。天使に聞いて、よい近道、最短距離を歩こう」と、目覚めて思ったことでした。そして昨年は1年じゅう、ずっとそういたすことに努めてまいりました。

 罪人の道がなぜ的外れであるか。自分が賢いと思い、より高い声に聞いて歩こうとしないから、結局、悪しき霊の想像の衝き上げに振り回され、やたらに自らさまようだけで、少しも目的地に着かないのです。

 嘲る者とは、傲慢に高ぶっている者、己を神とする者です。そんな者たちが賢そうに人を批評する座――討論会、もしそこで批評や賢そうな決議がなされたとしても、何ら神に聞かぬ以上、真理の道ではない。彼らに従うことは、結局、破滅を刈り取る以外にありません。

主は正しい者の道を知られる

それゆえ、悪しき者はさばきに耐えない。
罪人は正しい者のつどいに立つことができない。
主は正しい者の道を知られる。
しかし、悪しき者の道は滅びる。
(詩篇第1篇5~6節)

 神に聞かず、自分勝手に歩く者は、目標がないから、空しく歩き回るだけでなく、逆に信仰の正しい者の集会に対抗したり、神に祝福された者たちの集会を迫害したりする。そのような実り薄い、神なき魂の生涯、誰かがさばくわけでもなく、このこと自体がさばきです。

 6節の、「悪しき者の道」というものがあるわけではない。ただ自己を過信して歩き回っていただけで、結局何も残らぬ。その歩いたあとは消えて空しい。自滅、すべて徒労でしかなかった。この空しい結果こそ、悪自らの招くさばきです。

 「知る」はヘブライ語の「ヤダー」ですが、ブーバーも指摘するとおり西洋の神学者たちの誤りは、聖書の「知る」という概念を、哲学的省察による分析的な知り方に置き換えてしまっている点にあります。冷暖自知という言葉があるように、冷たさ、暖かさは考えてもわからない。触れてみてわかる。「アダムがエバを知った」とあるのも、男女の結婚を通して知り合う体認です。

 私たちが神に知られ、神を知るということは、神がいよいよ身近に自分たちに接触してくださり、その熱い臨在感を覚えるほどにも親密な交わりに入ることなのです。

 「主 ヤーウェ」も、普通は「在りて在る者」の意といわれますが、語源の「ハヤー」は「在る」よりも「現れ出てくる」です。見えざる実存の霊が立ち現れ、訪れることです。かつて天から降って燃ゆる柴の中に現れて、モーセに語りかけたもうたように、今も霊界からヌッとご自身を現して、親しく語りかけたもう臨在の神、これが主(ヤーウェ)であります。この神が絶えず私たちの手を取って道を教え、肌に触れるように共在して「なんじ右に行け、左に行け」と囁き、導きたまいます。この神の御手に導かれると、そこに道が備わる。すなわち神ご自身が道です。

 それで主イエスも、「われは道なり、真理(まこと)なり、生命なり」(ヨハネ伝14章6節)と言いたまいました。聖前に心へりくだって聞こうとする者に、主は恵み深く、歩むべき道を懇ろに慈愛をもって教えられます。主の御心に聞かず、自らの判断と心の衝動に任せて、ほしいままに行動するところに「罪」があるのです。人間は人生の路頭に迷って、「右に行くべきか、左に行くべきか」、その進路を選びきれぬ場合がしばしばあるから、神を畏れて生きねばならない。事ごとに神に祈って、お指図を仰がねば進まれぬ理由があります。

 どうぞ、キリストの御思いが私たちの胸に湧くことが大事です。神は愛ですから、私たちが栄えゆくことを、勝利することをお望みです。幸福であることをお望みです。

 ここで祈りながら、内側から湧くように、聖霊のインパルス、衝動が込み上げるようにイメージを描いてください。内なる囁きに聞きますと、開かれないような運命も開かれてきます。

 この1年、主の御声に聞きながら不思議に導かれる生涯を経験しとうございます。年末には、主の囁きに、トーラーに、お指図に従っていったらほんとうに栄える、生命の川のほとりに植えられた私たちは、聖霊の水に浸されよかったなあ、と喜びとうございます。

(1963年)

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