羊を慈しむ愛

よき羊飼い
(B・E・ムリーリョ画)

 (ヨハネ伝10章)10~11節で「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」とイエスは言われます。多くの人は自分が愛されることだけを求めます。けれども、人を愛さずに愛されることがあるものですか。また伝道するときに、自分が犠牲になることを覚悟しない者に、みんながついてゆくものですか。

 先日のこと、西宮の田中俊介さんが、「先生、改めてお願いするが、今日から先生の弟子にしてください」と言われる。「それはまた、どうしてです」と聞きますと、「私は、信仰生活が四十数年になるけれども、いまだ本当の信仰に至っていない。私は若い時から賀川豊彦先生に愛された者です。賀川先生亡きあとは、日本生活協同組合連合会会長という職を譲り受けてやっております。西宮で1200人の従業員を抱えています。

 けれども、従業員に1人のクリスチャンもいない。私だけです。これでは賀川先生に対しても相済まない。このままでは、この協同組合は賀川先生の言われる精神的な協同組合主義ではなくて、唯物主義的なものになってしまいます。これでは堪らないです。自分自身が変わらなければいけないと思いました」と言われます。それで私は、「あなたは今まで、クリスチャンとして戒律ばかりで生きてきたでしょう。それは愛さねばならないという義務としての、倫理としての愛です。私の言う愛はそうじゃない。愛というのは生命の発露です。私は理屈なしに弟子たちがかわいくてしょうがないのです。あなたのように義務で愛された愛など、誰でも嫌です。また、愛さねばならないから愛する、というのは功利的なものを含んでいて、本当の愛ではない。そこがあなたとの違いです」と言いました。

 この方は先日、私が大阪の幕屋の方々と熊本の温泉に行って、皆さんの背中を流した話をお聞きになったそうです。私が宗教というものを、聖書講義だけで説くと思ったら大間違いです。皆と一緒に風呂に行き、お互いに裸で語り合いながら、何か感じるものがあって、みんな大いに喜ぶ。これは説明でないものが、私たちの心に通うからです。

 結局、「御霊によりて懐(いだ)ける愛」という言葉がコロサイ書1章にあるように、聖霊に触れなければそのような愛は湧いてきません。昔の私は今のようではありませんでした。今は、キリストの民である人たちに尽くすことが、私の喜びとなりました。

賀川豊彦(1888~1960年): 大正・昭和期のキリスト教伝道者、社会運動家。不遇な少年時代を過ごす中で、キリスト教宣教師に触れ、回心。イエスの歩みに倣い、貧民窟で伝道。その後、貧困や労働の問題に取り組む。日本の生活協同組合運動において重要な役割を担った。

キリストこそ永遠の生命に至る門

 神の国、神の霊の世界は実在する。その霊界に出入りする者の生き方、愛、信仰は、実在の神を知らないで「神とは何だろう」と真っ暗な中で模索して、「神は光です、真理です、唯一絶対です」といった定義を信じている人の信仰とは、ずいぶん違うことがおわかりになると思います。実在の神に触れて生きている者の信仰は、いかに周囲がごたごたしようが揺るがない強いものがあります。こういう信仰を得ない限り、信仰は虚しいことです。

 なぜ、ある人の伝道は実り、ある人の伝道は実らないのかというなら、私は信仰の違いからくると思います。議論の宗教、議論の伝道は聞いていて嫌です。しかし、実在を知っている人の信仰は単純で、強く訴えてきます。聞いているだけでも魂に強く響いてくるものがあります。これはお互いが大いに工夫しなければいけないことです。もし、現在の自分の信仰が薄弱であると思われるならば、本当のものに触れていないからである。「今までの私の生き方は間違っておりました。努力しても実りませんでした。本当のものを知らなかったからです」と心から祈りたい。

 ブーバーが言うように、信仰は確実な実在に触れる入り口です。キリストは「われは門である」と言われましたが、キリストこそ永遠の実在に至る門です。私たちはキリストによらなければ永遠の実在なる神の国に至ることはありません。私たちはキリストの御心を心としたい。だが、それは羊が羊飼いの声を聞くというような微妙なことで、説明で教えるのは非常に難しいです。

 私は伝道しながら、そう思います。ある人は理屈を超えて「先生!」といって私の言うことをわかってくださるが、そうでない人もいる。「知音の心」、これが宗教を学ぶ者にとって実に大問題なんです。これは結局、お一人おひとりが心のスイッチを切り替えて、心の関門を越えていただくしかありません。キリストは、「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われる」(9節)と言われたが、このキリストの御言葉が「然り、アーメン」と魂でわかるならば、もう天はあなたに近い。否、あなたはすでに天に接触しているのです。贖われた者は神の国の雰囲気を味わっています。これは理屈ではない。愛された者の実感として知っております。

 前章に書かれているシロアムの池で癒やされた盲人は、人が何と言おうが、「あの人が罪人であるかどうか、私は知りません。ただ1つ知っているのは、私は盲人であったが、今は見えるようになったという贖いの出来事です」と言うとき、盲人とイエスとの間に愛の関係が成立していました。それで、人は躓き去っていったけれど、羊飼いなるイエスとその羊である盲人との愛の関係は揺るぎませんでした。こういう関係を、キリストは羊と羊飼いの例に譬えられたのです。

豊かな生命に与る

 どうして、羊飼いと羊との関係が聖書の中で、神とイスラエル民族との譬えとしてあるのか。

 イエスは「わが羊はわが声を聞く」と言われます。羊は素直な動物です。けれども頭の悪い動物です。自分で水の飲み場も青草のある所も知らない弱い動物です。そして迷いやすいのが羊です。ただ1つ、羊の取り柄は「従順」ということです。そして、羊飼いの声をよく知っているということです。ですから、羊飼いは羊を思うように導くことができます。私たちも、ほんとうにキリストの御声を聞いて生きる不思議な人間でありたい。

 イエス・キリストは「わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである」(10節)と言われる。かりに荒野を通り、死の陰の谷を過ぎ越させてでも、羊飼いであるキリストは私たちを豊かな世界に連れてゆきたいと願っておられるのです。

 「豊かな」という言葉は、原文のギリシア語では「περισσος ペリッソス」といって溢れるような豊かさを意味します。たとえばコップに水を注ぐとき、注ぐだけ注いだらもう入りません。それ以上に水を注いだなら水は溢れます。そのような状況のことです。キリストが与えようとされる生命は、そのような豊かな生命です。キリストは、このような尽きない生命の世界に羊を連れてゆくのがご自分の仕事である、と言われる。私たちもキリストに信じて、そういう所に導かれたい。

 大事なことは、困難なことがあり、前途に大きい荒野が横たわっていても、どうぞ思い切ってキリストに従い、キリストと偕に歩くことです。苦しさは増しても、それは私たちがより高きに上る希望となるのです。それをせずに、いつまでも不安がっていても、よいことは始まりません。

 キリストに導かれる人生は、なんと幸せだろうかと思います。私たちは羊が羊飼いの声を聞くように、「主よ、御声を聞きます」と従順になって、キリストに従ってゆきとうございます。

(1963年)

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