確かな実在に入るには

 そこで、イエスはまた言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。わたしは羊の門である。わたしよりも前にきた人は、みな盗人であり、強盗である。羊は彼らに聞き従わなかった。わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう。盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしがきたのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしはよい羊飼いである。よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」
(ヨハネ伝10章7~11節)

イエス・キリストは、「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われ、また出入りし、牧草にありつくであろう」と言われています。そのように、緑のオアシスに導かれてゆこうと思うならば、たとえ死の陰の谷を歩いても、羊飼いに、キリストに従ってゆくことが大事です。

はるか彼方にオアシスのような豊かな祝福があるということはわかるけれども、そこまでの道のりは砂漠の旅かもしれません。それでもキリストに頼り、ついてゆくという心があるなら、ついにそれを発見します。これは、羊が羊飼いの声に従っていれば緑の草にありつけることを知っているように、私たちもキリストを通ってゆけば、最も真実な世界に導かれるという確信があればこそです。

「わたしは門である」とあるが、ユダヤ人の宗教哲学者マルチン・ブーバーは、「信仰は人間の心の中に生ずる感情ではなく、リアリティー、確実なる実在への入り口である」と言っています。

これは私たちが信仰を学ぶにおいても大事なことです。私たちはただ心の中で、「宗教はいいもんです。法悦の気持ちに浸って嬉しいもんです」といって、何か1つの宗教的雰囲気を楽しむために宗教を志しているのではない。現実にありありと全宇宙を支えている確かな実在である神の霊、神の生命に触れるためです。だが、神の生命には、私たち人間は信仰によらなければ触れることができません。信仰によってそれに触れればこそ、法悦の喜びもあるけれども、それは結果なのであって、まず大事なことは、確かな実在との接触に私たちが入ってゆくことであります。

マルチン・ブーバー(1878~1965年): 20世紀を代表するユダヤ人宗教哲学者。『我と汝』を著して、聖書の思想を土台とする「対話の哲学」を提唱。ユダヤ教の神秘主義的革新運動であるハシディズムを世界に紹介した。

実在に寄り頼む信仰

そのような実在に触れる経験なしに「神があるか、ないか」などと、どれだけ考えてもわかるものではありません。「神とは〇〇だ」といういろいろな説明を信じたとしても、それは説明であって私たちの救いにはなりません。頭ではわからないけれども、確実に私たちの救いの力であり、生命であるお方に触れていることと、「神とはこういうものである」という説明を一生懸命信じたり、教理を信じたりしていることとはだいぶ違います。

だから、教理を信じているような人の信仰は、何かが起こるとすぐにぐらつくけれども、確実な実在に寄り頼んでいる人の信仰はぐらつきません。他の人がぐらついたって、何が起こったって神を信じようと思う。ここに、信仰に2つのタイプがあることがわかります。本当の実在、リアリティーに触れている人と、神についての仮説を信じている人との違いが出てくるのです。

4~5節に、「(羊飼いは)自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」とあるように、羊と羊飼いの間に真実な関係、愛の関係があるということがわかります。

ある時は、羊飼いが死の陰の谷に連れてゆくようなこともあるでしょう。砂漠では陽が照りつけて、行けども行けども水にありつけないこともあるでしょう。しかし羊はついてゆく。その声を知っており、全く信頼しているからです。神と私たちの関係もこれと同様です。

こういう確かな声に導かれているかどうか。導かれていない信仰というのは、実にあやふやです。それで、「ああでもない、こうでもない」といってうろうろしている。結局、神がよくわからないから、自分に寄り頼んで自分で暴走し、失敗する。ところが、ほんとうに神に聞く者の信仰は強い。何も理屈がない。けれども、確実である。これは、私たちが信仰を学び求める場合に大事なことです。

出会って知る神

神は絶対者で、最も大いなる者ですから、人がこれを説明しても説明しきれるものではありません。それで神の霊に出会ったことのない人にとっては、神の名を呼ぶことは非常に難しいです。

私の父は晩年にキリストの信仰に入りましたが、私の集会に出席するようになって間もなく、「神とはいったい何だ」と言います。それで、「お父さん、あなたはお祈りする時、どう言って祈るのですか」と聞きました。すると父は「実は、『神よ』と言ってもどうもピンとこない。聖書に『神は光である』と書いてあるから、『神様、御光様、世の光である者よ、宇宙の光よ』と呼んで祈っているが、どうだろうか」と言います。

「それでも祈らない人よりはいいでしょう。しかし、『御光様』と言うのでは、神を親しく感じながら祈るという気持ちにはなりにくいでしょう」と言いますと、父は「そうだ」と言います。

「お父さん、そこが問題です。神は人格的なものだから、人格的なものに呼びかけるように祈るのがいいでしょう。おおげさな形容詞は要りません。私はあなたを『お父さん』と呼ぶでしょう。それをもったいぶって、『手島郁郎の生みの親なる父よ』と言ってみたところで妙です。神に祈る場合も同じです。素直に『神様、あなたは』とか、『お父様』でいいんです」と言いました。

しかし、これは私の父だけの問題ではないと思います。信仰が低迷したときなどは、神を身近に感じません。それで、神に対して「お父様、あなたは」と言えません。それは神とその人との間に、羊飼いと羊の間のような愛の関係が成立していないからです。

けれどもKさんのように、中風で足腰が立たず一生ベッドに縛られて生きるはずだったのが、幕屋の集会で救われたという経験。これは確実な贖いの経験です。自分を愛し、救う者が実在する。そのお方に触れて、「ああ、お父様!」と呼びはじめた神は、頭で思索した神とは違います。このような在りて在る神に出会う経験に入らない限り、その人の神は本当の神ではありません。

(1963年)

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