今日は、ヨハネ伝10章1節から学んでまいります。これは、イエス・キリストが「わたしはよき羊飼いである」と言われた有名な箇所です。

よき羊飼いの譬え

 「よくよくあなたがたに言っておく。羊の囲いにはいるのに、門からでなく、ほかの所からのりこえて来る者は、盗人であり、強盗である。門からはいる者は、羊の羊飼いである。門番は彼のために門を開き、羊は彼の声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す。自分の羊をみな出してしまうと、彼は羊の先頭に立って行く。羊はその声を知っているので、彼について行くのである。ほかの人には、ついて行かないで逃げ去る。その人の声を知らないからである」。イエスは彼らにこの比喩を話されたが、彼らは自分たちにお話しになっているのが何のことだか、わからなかった。
(ヨハネ伝10章1~6節)

羊の群れを導く羊飼い
(ベツレヘム・19世紀)

 イスラエルという国のあるパレスチナ方面では、昔から遊牧が行なわれています。それで、イエス・キリストが羊のことを譬えにして話されると、私たち日本人にはピンときませんが、そこに住む人々にはよくわかります。

 ここで「門」とありますが、野原のあちこちを移動して羊の群れを飼っていると、夜になったら家に帰ることができない。そういうとき、狼や山犬から羊を守るため、野原のところどころに土手で囲いが築いてあり、そこに羊を追い込んでおきます。その囲いの門のことです。

 朝になったら、羊飼いが羊を呼び出します。羊は自分の羊飼いの声を知っていて、呼ばれるとやって来る。しかし、そうでない者がどんなに呼んでも、羊は来ません。こういうことを譬えにして、イエスはキリストとその民との関係をお語りになりました。

誰が真理を聞きうるか

 ここでイエス・キリストは「羊は羊飼いの声を聞く」と言われています。この時もたくさんのユダヤ人たちが、キリストを取り巻いていたでしょう。しかし、キリストがほんとうに弟子であると思われる者は、羊が羊飼いの声を聞き分けるようにキリストに聞き従う。そうでない者は側にいて聞いていても、その深い意味がわかりません。ここに宗教を説く難しさがあります。

 仏教の禅宗には、次のような話があります。釈迦がインドの霊鷲山(りょうじゅせん)という山で説法の会を開きました。ところがその時、何も言わずにただ一輪の花を拈(ひね)って見せた。皆、ただ黙って見ていたが、迦葉(かしょう)という弟子だけがにっこりと微笑みました。それを見て釈迦は、「われに微妙(みみょう)の法門あり。不立文字、教外別伝、摩訶(まか)迦葉に付嘱す」と言いました。「微妙の法門」、人間の知恵や知識では至ることのできない不思議な智慧、言葉では説くに説けない真理を、迦葉ただ1人が悟ったのだ、というのです。釈迦は何も語りもせず、一輪の花を示しただけです。他にも優れた弟子たちが一緒にいたのですが、釈迦は迦葉に法統を継がせました。

 このように、「声を聞く」というのは、ただ言葉を聞くというだけのことではなく、その心を読み取るということです。

 イエスは後の箇所で、「わたしは門である。わたしをとおってはいる者は救われるであろう」(9節)と言われています。天の生命には、イエス・キリストを通らなければ入れない。多くのクリスチャンはこの言葉を読んで、キリスト教を信じ、教会に行きさえすれば救われるように思っているかもしれません。しかし、当時もたくさんの弟子たちが取り巻いていたでしょうが、「わたしの羊はわたしの声を聞く」と言われるイエスの言葉を聞いて、心底から頷くことのできる、本当のキリストの民は少なかったのです。

知音の心

 3節に「羊は羊飼いの声を聞く。そして彼は自分の羊の名をよんで連れ出す」とあります。私は信仰を求めて来る人に、やかましく言う場合があります。それは、私は宗教的な生命を伝えようとしているけれども、信仰上の私の問いに対して、ただ表面的な言葉のやり取りをしてしまうからです。宗教を学ぶというならば、私が「こう」と言えば「ハイ」と応えるような、当意即妙の境地でなければだめなのです。「羊は羊飼いの声を聞く」とは、そのような境地です。

 親しい仲でしたら、「オイどうだ」「ウンウンやっとるよ」「そうかい、それはよかったねえ」で通じるものです。隣で聞いていたって、何のことかわかりません。しかし、お互いの間では通じているんですね。こういう世界を、音を知る、「知音(ちいん)」といいます。

 昔、支那に伯牙(はくが)という琴の名手がおりました。その友人に鍾子期(しょうしき)という人がいて、伯牙の演奏の心をよく知っておりました。伯牙が中国の聖山である泰山を思って琴を弾くと、鍾子期はその音を聞いて、「巍巍乎(ぎぎこ)として太山のごとし(高くそびえてまるで泰山のようだ)」と即興で詩を吟じました。また、流れる水を思って弾くと、「湯湯乎(しょうしょうこ)として流水のごとし(まるで川の水が勢いよく流れるようだ)」と詠いました。そのように、伯牙の琴の音を聞き分けることができました。

 だが鍾子期が死んだ後は、「世の中に琴を聞かせるに値する人はもういない」と言って、伯牙は琴を壊して弦を断ち、再び琴を弾かなかったといいます。「知音」という言葉は、この故事に由来しています。宗教において大事なのは、この知音の心です。

(1963年)

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