弘法大師が伝えたもの

 人間は、何も知らない弱い存在です。しかし神に導かれだしたら、不思議に力強く歩ける。これが、アブラハムに始まった聖書を一貫する信仰です。アブラハムは、もともと今のイラク付近にいた人です。彼がはるばるカナンまでやって来た時、この宗教が成立しました。「われは全能の神なり、汝、わが前に歩みて全かれよ」と言ってアブラハムに現れた神は、なんと偉大なのかと私は驚きます。この神が歩かれる所、ユダヤ教、キリスト教、またイスラム教が生まれました。

 さて、日本の仏教で勢力が強いのは、真言宗、日蓮宗、浄土宗などの系統ですが、これは皆、大乗仏教が日本に土着して生まれたものです。大乗仏教は原始仏教ではなく、お釈迦様の死後、600~700年後に成立した教えです。ペルシアの宗教や、西方の宗教の影響を受けているともいわれます。こういうことを見ますと、昔のペルシアやバビロン、アッシリア、カルデアという方面に発生した宗教は、非常に強い影響力をもっていたことがわかります。それは、神学や哲学によって知ろうとする、今の西洋の宗教とは違うものでした。

高野山での聖会で聖書を講ずる手島郁郎
(1963年)

 特に弘法大師の伝えた真言密教は、当時の中国で流行していた景教(ネストリウス派キリスト教)の影響を受けているともいわれています。真言宗では、知的理解に重きを置くよりも、どうしたら秘密真言が開けるか、という霊的なことのためにいろいろな心備えが説かれています。

 また、弘法大師が唐から帰る時に嵐に遭い、船が沈みそうになりました。もう助からないと思った時、大師が真言を唱えて祈ると不動明王が船の帆先に現れ、手に持っていた剣で荒れ狂う海を切り開いたので、無事帰国できた、と言い伝えられています。その仏様は「浪切不動(なみきりふどう)」と呼ばれて、今も高野山に祀られています。

 弘法大師は唐に学んで、こういう霊的なものと出会う経験をしました。ですから弘法大師の真言宗は、霊なる実在との出会いが基調になっています。これが真言宗の強みです。

 私は宗教というものが、こうやっていかに影響し合い、高め合っているかを、先日高野山に行って知り、驚きました。それで私は仏教を排斥しません。むしろ、おかしなキリスト教に対して非常な反発を覚えます。それは、宗教の求め方が全く違うからです。

 今の日本のキリスト教に力がないのは、実在の神に出会って、それを信じるという信仰でないからです。神学書にあることを、ただ鵜呑みに信じているだけではちっとも力が出ません。教える者がまず霊なる実在である神と出会い、そのぶつかったものを伝えるのでなかったらだめです。今は実存的な時代です。現実の人生の苦しみや虚しさを解決しない、ただ夢みたいな説明など、誰も聞こうとしません。皆が欲しているのは、神の御手に触れて救われる経験なのです。

神に信頼し寄り頼む信仰

 イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
(ヨハネ伝9章35~38節)

 盲人だった人は会堂から追い出された。イエスは彼を見出して、「あなたは人の子を信じるか」と言われました。「人の子を信じるか」というのは、ギリシア語の原文を読むと「εις エイス 〜の中に」という前置詞を使っていて、強い表現です。「人の子に信じるか」です。「……に信じる」とは、その人の胸の中に信じることです。キリストの人格に、愛に、御心に委ねることです。これは頭で理解することではありません。原理や理屈を信じるのなら、「……を信じる」でもいいでしょう。けれども、「神様に信じている」のとでは、信仰といっても大違いなんです。

 たとえば、私はこうやって黒板に寄りかかって話しております。この黒板がなかったら、私は倒れます。そのように私は神に寄りすがり、神に信じております。神様がいなければ私は生きてゆけません。ところが、「私はキリストを信じましょう」などと言う人は傲慢です。自分に主体性があるからです。自分の都合で信じたり、信じなかったりする。だが、キリストに寄りすがるように生きている人の信仰は、無学であっても強いです。そして真実です。理屈はどうであれ、神様に信じています。

 イエスは、ナザレの田舎大工でした。しかし、この盲人だった人はイエスを、救い主、メシアとして平伏して拝しました。イエスは肉の姿をとっているが、神から出て、神の生命を宿している者である、ということを彼は信じたからです。このような信じ方は、頭の理解からは生じません。不思議な神の実在、神の霊に触れる経験を通して生まれることです。このキリストの生命に出会った者は救われ、恵まれた生涯が始まります。どうか私たちは、ここでキリストに、人の子に信じ、寄り頼みたく願います。

(1963年)

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