方法論ではない

 ですから、この盲人のような者がかえってわかるんですね。これはキリストにぶつかったからです。しかし、目が開けない者には、ここにイエス・キリストという偉大な存在がありましてもわからない。盲人に詰め寄ったユダヤ人の宗教家たちは、神がわかっているつもりです。しかし、神の求め方が全く違います。彼らは、「イエスはおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目を開けたのか」と言って、「何を、どうしたのか」と方法論を問題にしています。

 だが、あのような奇跡を引き起こす力は、方法論ではなく霊の働きによるものです。そういう本質的なことは忘れ、奇跡を方法論として論じるときに大きな間違いを犯します。

 宗教家たちは、目は開いていて神がわかっているつもりでも、キリストという偉大な存在が全くわかりませんから、方法論ばかり尋ねます。しかし、イエスがされたように彼らが真似たからといって盲人の目が開くかというと、たぶん開かないでしょう。なぜなら、この盲人の目を開けたのは神の力の発動であって、外側の方法の問題ではなかったからです。

 私たちは皆、霊的な目が開けていない盲人です。それならば、救う力のある者に従うという謙虚さが必要です。この盲人は、イエスに従って急な坂道を下って谷底まで行ったから救われたんです。キリストには人を従わしめてやまない力があった。その権威に従うときに、驚くべき奇跡が起きます。けれども従わない人には、キリストといえども何もすることができませんでした。多くの人たちがなぜ救われなかったか、それは頭では信じても従わなかったからです。「わたしの言葉を聞いても行なわない者は、わたしの弟子ではない」と言われるゆえんがそこにあります。

 私たちは、イエス・キリスト、2000年前にこの地上を歩きたもうたお方が、霊となって今も生きておられるのを感じます。そして、私たちに語りかけておられる。その御言葉の中に浸って、「主よ、語りたまえ。私は聴きます」といって耳を澄まして聴こうと願います。

霊的な権威を帯びて

 マタイ伝8章では、ローマ軍の百卒長がイエスの許に来て、自分の僕(しもべ)の病の癒やしをお頼みします。イエスは「わたしが行って治そう」と言われますが、「いいえ、私の屋根の下にあなたをお入れする資格はありません。ただ、お言葉だけ下さい。そうすれば僕は治ります。私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵卒がいまして、一人の者に『行け』と言えば行くし、他の者に『来い』と言えば来ます」と言いました。それを聞いたイエスは大変びっくりされて、「イスラエル人の中にも、こんな素晴らしい信仰は見たことがない」と言われました。そして、「行け、あなたの信じるごとくになれ」と言われた。すると、ちょうどその時に僕は癒やされた、と書いてあります。これが信仰です。

 私は最近、伝道を志願している那須純哉君を見てびっくりしています。水泳の選手としては世界的な選手でしたが、伝道者としてはどうだろうかと思っていました。しかし、大阪の家庭集会や京都や堺にも彼は出かけますが、皆が驚きます。彼が祈れば、そこに奇跡が起こるからです。「なんと不思議な人でしょう」といって年上の人たちまでが尊ぶときに、彼の背後にある神の権威というものを皆さんが感じ、また彼自身もそれに従っているということを、私は知ります。

 優れた信仰の人は、自分が偉いのではない、自分は偉大なる者に立てられ、偉大なる者に服従しているという自覚をもっております。そのような人の周囲には、そこに不思議なことがいつも起きるんです。自分だけで信仰している間は弱いです。しかし、偉大なる神の御霊に立てられ、神の導きの下に生きていると思うと強いですね。それは、人間の傲慢さから来る強さではありません。自分の背後にある霊的な権威による強さです。

神秘な実在にぶつかる経験

 盲人は会堂から追い出されました。このことは、当時の宗教全盛の時代においては、生きることすらできない目に遭うことを意味しておりました。それでも、この盲人はイエスを慕いました。これはイエスを通して生ける神に出会ったからです。愛とはこのように、生ける神との出会いです。ここに愛を知った者の強さがあります。何かの原理や教理を知った知り方とは違うのです。

 皆さんが、この集会で何か信仰の理屈や教理を学ぼうとされるならば失望します。幕屋で学ぶべきものは、驚くべき神秘な霊的実在にぶつかる経験だからです。私はいつもそのために、「あなたはこうしなければ、神に出会うことはないですよ」と言って、その道筋をお教えするだけです。神に出会い、偉大なる者に立てられていることを知った人間は強いです。それがないと、他人の偉さや、顔色ばかりを気にします。けれども、私たちが神だけを畏れ、神の権威に従って生きるときに、人の顔を恐れずに何事でもやれます。

 ある人は私に、「先生は強い」と言われますが、私が強いのではない。私はキリストという驚くべき権威を知り、キリストに用いられている光栄に感激して生きているだけです。

 そして、もうこの世的なおつきあいはしたくない、ただキリストをほんとうに必要としている人の友でありたいと思っております。私はもう短い人生だから、少数でもよい、キリストの霊にすがらなければ救われないような魂とのみ歩きたいと願っております。そのような人にキリストを伝えると、驚くべき救いに入ります。

 ところが、キリスト一筋に生きようというのではなく、まあ宗教を信じるのはいいことだから、という程度の人ばかり集まっても霊的に燃え上がりません。なぜ幕屋の信仰は燃えているのかというなら、皆がキリストに必死にすがりつきたいという思いだけで集まるからです。余裕のある者は来ない。また来てほしくない。議論するための人も必要でない。ですから私たちの集まりの中ではキリストが崇められます。そして、ほんとうにキリストに生きている者たちが尊ばれます。

(1963年)

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