今日はヨハネ伝9章24節から学んでまいります。イエス・キリストによって、生まれながらの盲人の目が癒やされるという奇跡が起こった時、ユダヤ人の宗教家たちは、「あの男は安息日を守っていないから、神から来た者ではない」と言ってイエスを非難しました(16節)。

 そして、盲人であった人をもう一度呼んで、「あの人は罪人ではないか」と詰め寄りました。すると彼は、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」と答えました。それに対してユダヤ人たちは、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」とさらに聞いてきました(24〜26節)。

生ける神との出会い

 彼は答えた、「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。そこで彼らは彼をののしって言った、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」。そこで彼が答えて言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。
(ヨハネ伝9章27~34節)

 ここで宗教家たちは、相手が盲人であった卑しい人間であると思うと、居丈高になって「自分たちは神を知っている。しかし、おまえは知らない」と言わんばかりです。通常、私たち人間は神を知ることなどできないのが本当です。もし神を知ることができるというならば、それは神自らがご自分を現し、目に見えるように私たち人間の世界にやって来たもうからです。

 かつての盲人は、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」(25節)と言っているように、イエス・キリストに出会って目が開かれた、という不思議な経験をもっています。

 神が語りかけ、神がご自分を現されるという経験をした者にはわかりますが、そうでない者には、神は本当にはわかりません。けれどもこのユダヤ人たちは、自分たちは熱心な信者だから知っている、と言い張ります。ここに、「神を知る」ということについての問題があります。

パスカルの回心

 私が聖書にいつも大事に挟んでいる言葉があります。それは、フランスの偉大な数学者であり、キリスト教思想家でありました、ブレーズ・パスカルの言葉です。パスカルがコンバージョン(回心)を経験した日の覚え書きで、自分の胴衣の裏に縫い込んでずっと肌身離さず持ち歩いていましたが、彼が死んだ後に発見されたものです。

(恩寵の年1654年11月23日、月曜日……夜10時半頃より0時半頃まで)

 

 

「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」
哲学者および識者の神ならず
確実、確実、感情、歓喜、平和
イエス・キリストの神
〈わが神、すなわち汝らの神〉
汝の神はわが神とならん
神以外の、この世および一切のものの忘却
神は福音に示されたる道によりてのみ見いださる
人の魂の偉大さ
「正しき父よ、げに世は汝を知らず、
されどわれは汝を知れり」
歓喜、歓喜、歓喜、歓喜の涙 
われ彼より離れおりぬ
〈生ける水の源なるわれを捨てたり〉
「わが神、われを見捨てたもうや」
願わくはわれ永久に神より離れざらんことを
「永遠の生命は、唯一の真の神にいます汝と、
汝の遣わしたまえるイエス・キリストとを知るにあり」
イエス・キリスト
イエス・キリスト
われ彼より離れおりぬ、われ彼を避け、捨て、十字架につけぬ
願わくはわれ決して彼より離れざらんことを
彼は福音に示されたる道によりてのみ保持せらる
全きこころよき自己放棄
イエス・キリストおよびわが指導者への全き服従
地上の試練の一日に対して永久に歓喜
〈われは汝の御言葉を忘るることなからん〉 アーメン

ブレーズ・パスカル
(1623~1662年)

 パスカルはまず「火」と書いております。その夜の経験は「火」という以外にない経験であった。そして、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」とありますが、彼らは哲学者や神学研究家ではなかったのです。突如として現れた神に出会う経験をもった人たちでした。

 パスカルは、ほんとうに神を求めていました。しかし、哲学者のように頭で求めている間はわからなかった。ところがある日、燃える火のような経験、ユダヤ教でいうヒトラハブート(灼熱の歓喜)の経験に入った。イスラエルの民をエジプトから導き出したモーセに、燃ゆる火の中から「われはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神なり」と語られたのと同じ神が自分にも現れた、という経験でした。それからというもの、彼は驚くべき深い宗教経験に入っていったのです。「確実、確実、感情、歓喜、平和、イエス・キリストの神……歓喜、歓喜の涙」と言葉がつながっていません。いかに感動していたかがわかります。

 このように神にぶつかる経験こそが、聖書における「神を知る」ということです。西洋の学者は本を読んで研究し、いろいろと定義づけしたものを「神は唯一で絶対者だ」などと言って、ただ頭で神を理解しようとします。しかし、頭で考えている間は本当の神ではない。パスカルが発見した神は、突如としてやって来て、火のように己を燃やしめる神でした。

神の知り方の違い

 私は先ほど茶の間で、再臨派の教会から来たという若者と話していました。

 「もうすぐご再臨が近い。新約時代は終わろうとしています。そして、キリストが再臨されるので心備えしなければいけない。私たちの意見をどうか聞いてほしい。また私たちの原理を書いた本を読んでほしい」と言う。彼らは、宗教の原理を理解することが信仰だと思っているんです。ここに、神に対する知り方に大きな違いがあります。

 生けるキリストに導かれている私は、そんな本を読んだり、人の話を聞いたりする必要はありません。私は、私自身を導きつつある霊的な実在を信じているのであって、原理や教理を信じてはおりません。日々、目を瞑って祈れば、彷彿として目交いに現れ、慈しむ瞳をもって私を見つめ、抱きしめてくださる不思議な神に守られています。

 キリストは死んでいない。今も霊として生き、呼べばいつでも来たりたもう、ということをありありと知る経験。それが私の信仰です。また、私たち幕屋の信仰でなければなりません。

 今朝早く、私はユダヤ人の宗教哲学者マルチン・ブーバーの本を読んでいました。彼は、西洋キリスト教は聖書の宗教を誤解している。それは神に対する知り方が間違っているからだということを言って、その根本的欠陥を指摘しています。聖書の神は、愛する者が悩み、苦しみ、悲しんでいるのを見てご自身を現してでも、今も生きていることを示される神、啓示の神です。

 聖書の神は、生ける神です。死んだ理屈や原理なら頭で考えてもわかるでしょう。だが、生ける神は、出会った者にのみわかるのです。生ける神は聖なる霊です。それ以外はみんな偶像です。

 西洋のクリスチャンすべてが、信仰がわからないのではない。ブーバーは、パスカルのように神秘な神に出会って本当の信仰がわかった人もいる、と言っています。私は彼の本を読むにつけ、私たちがいつの間にか身につけた信仰が、いかに聖書にかなうものであるかを知りました。

(1963年)

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