神の御業が現れるため

 今から8年ほど前(1955年頃)のこと、私が徳島で集会をしました時、カリエスで足腰が動かず、療養所から担架で運ばれてやって来た人がいました。だが、この人の聴講態度が非常に悪く、裁くような調子で妙な質問をします。「先生、お話はけっこうですが、宿命ということをどう考えますか。私も妹もカリエスで足腰が立たない、これは宿命と考えざるをえません」と言うのです。その人は、一生宿命に繋がれて死んでゆくと覚悟していたのでしょう。神が愛であることを信じられず、ただ病気にじっと耐えることが十字架の信仰である、と思っていました。

 それで、「ぼくは宿命を信じない。宿命を信じる人には存在するだろうが、宿命を覆すことのできる力を知っている者には宿命などない。真っ暗な君の人生にキリストの光が射し込んだら、君の生涯は全く変わる。神は愛だ。神が愛であるなら、君が宿命に縛られたまま病にのたうっているはずがないではないか」と語ったことでした。

 たとえ宿命というものがあったにしても、私はそんなものに縛られることは嫌です。そして、宿命から逃れることができると知ったのは、キリストのお蔭です。ロマ書8章に記されているように、キリスト・イエスの生命によって罪の縄目から解放され、魂の自由を与えられました。実にキリストは、私を獄(ひとや)から救い出す贖い主であられます。

 1年後この人に会ったら、すっかり癒やされて喜んでおられる。宿命というものを信じなくなったからでした。そして、熊本の私の許に信仰を学びに来ましたが、私は普通の健康な人と同じように働くことを勧めました。彼はそうして、ついに宿命から救われました。

 ですから、まず大事なことは、私たちは宿命を信じないということです。結局、その人の信仰がその人を支配いたします。宿命を信じて、自分は一生浮かぬ人間だと思う者はそうなります。

 私たちは、そのようなこの世的な考え方に対して「ノー!」と言わなければ、絶対聖書はわからない。私たちにとっていつも、生きることは戦いです。そういう悪い思想との戦いです。自分の心の隙に乗じて入ってくるものに対して戦い、過去がどうであれ、現在がどうであれ、贖われて向上の一路を辿るのが私たちの生涯である。どこまでもそうでありたいと思います。

 この信仰が奇跡を引き起こします。どうぞお互い、もし悪い現状がそのまま続くと思うような考えがあるならば、「ノー!」と言って、お戦いにならなければなりません。

 キリストは、このような人間の生まれながらの悲惨さをよくご存じでした。だがキリストは、そのような悲惨な中にある人を通しても「神の御業が現れる」と言われる。これは実に驚くべき言葉です。普通なら素晴らしい人に神の御業が現れると思うでしょう。しかし、人生のどん底に嘆いている者に神の御業が現れる。私たちはこの真理を知らなければなりません。

「シロアムの池に行って洗え」

 「イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた」(6節)。私も病の人のために祈るとき、よくプッとつばをつけてやります。なんでそんな汚いことをするのだろうと思うかもしれないが、私はイエス様の真似をするのです。

 どういうわけで泥を塗るのか。ある人は、「その泥の中に目薬の原料となる成分があるのではないか」などと言います。だが、それは信仰のない人の言い分で、泥を塗ったら普通はもっと悪くなります。誰でも、つばをつけられただけで躓くでしょう。泥を塗られたらもっと躓きますよ。しかし、信仰とは妙なものです。そのような躓きに打ち勝ったときに、不思議な力が働く。これが信仰です。試されて揺すられて、信じる心も失いかけるような目に遭わされても、なお信じ抜いたときに、ハッと救われるんです。

 私に対して「こうしたほうが人は躓きませんよ」と忠告してくれる人がいますが、私は人によってはわざと躓くようなことを言うんです。それを越えることができないならば、本当の信仰にならないからです。私だって人を躓かせることは嫌です。しかし、相手のために本当のことを言わなければいけないときがある。そのときに、躓くからといって真理を曲げたりはしません。

イエス時代のエルサレム市街の模型。
神殿(背後の壁)とシロアムの池(左下)

 「シロアムの池に行って洗え」(7節)とあるが、シロアムの池はエルサレムの神殿から南側に600メートルほど急な斜面を下った所にあります。「そこに行って洗え」と言われるのです。つばきで泥をこねて塗るだけでもどうかと思うのに、なんで盲人に対して、谷間の底にある池にわざわざ下りてゆけなどと、キリストは躓きに躓きを加えるようなことを言われるのか。エルサレムにだって、他に水が出る所はあると思うでしょう。

 しかし、彼はそれに従ったから癒やされたんです。「可愛い子には旅をさせよ」「獅子はわが子を千尋(せんじん)の谷に落とす」というけれども、這い上がる力があれば救われます。

奇跡は信仰の子、信仰の質を問う

 現地に行ってみると、盲人がこんな坂をどうやって下りてゆくだろうかと思います。一歩間違えたら転げ落ちるような所です。躓きに躓けと言わんばかりです。しかし、彼が困難を越えて行ったから、そのとおり目が癒やされた。奇跡はいつでもそうやって起きるんです。

 目の見えない人が、そういう急な坂を下りてゆくなんて非常識なことは、なかなかできません。しかし、信仰には常識との軋轢(あつれき)があるものです。「シロアムの池に行って洗え」と言われたら、その盲人はそこへ行って目を洗った。このように素直に従うところに、驚くべき祝福があるというから大変なことです。信仰は「従順、従って歩く」ことです。「イエス・キリストがおっしゃるのだから、常識ではわからないけれどお従いします」といって歩いたら、この盲人は大きな幸福を刈り取りました。

 私たちは自分の判断や考えで動きます。その間はキリストの救いは始まりません。しかし、「私の考えと違いますが、貴神(あなた)の導きがそうであるならば従います」と言いきって従いはじめるときに主の御業が成ります。誰もこれがなかなかできない。この盲人の偉大さはここにあります。

 普通、逆境が続いた人ほど心が素直でなく、従うことができないものです。しかし、この盲人はイエス・キリストの権威に圧倒されたのか、とにかく従いました。それで救われました。これが信仰にとっていちばん大切な点です。信じはするが、従わない。信じても行なわない。それは行ないのない信仰です。ヤコブ書に「行ないのない信仰は、死んだ信仰だ」とあるとおりです。

 信仰とは行なうことです。行なって救われるのです。それは道徳的な行ないをすることではありません。神に信じて実際に行なってみることです。信仰は自分の生活で生きてみてわかることで、教理でわかることと違います。どんなに理屈で問答しても、こういう奇跡は起きはしません。

 ところがこの後を読むと、ユダヤ人の宗教家たちがこの救われた盲人に寄ってたかって、「どうして治ったか」「その人のことをどう思うか」などと質問を連発しています。今でも、皆が私に「どうしたら奇跡が起こるんですか」と聞きます。しかし、これは方法論の問題ではありません。霊の問題、信仰の本質の問題です。それを解決せずに「どうして」と言っても、教理を信じる信仰からは奇跡が起きるような力は出てきません。キリストの生命が込み上げてくるかどうか、聖霊が働くかどうか、の問題です。

(1963年)

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