聖書において、善悪を問うとき、その判断の基準は何でありましょうか。それは、神を中心にした基準であります。

 今は民主主義の世の中ですから、国会の議決によって法律が作られ、その法律によって社会生活上のルールが決まり、善悪の基準、判断が与えられたりします。しかし、神様が言われる善悪というものは、人間が言う善悪とは違います。

 そのことを、詩篇14篇のダビデの歌から学んでまいります。

愚かな者は心のうちに「神はない」と言う。
彼らは腐れはて、憎むべき事をなし、
善を行う者はない。
主は天から人の子らを見おろして、
賢い者、神をたずね求める者が
あるかないかを見られた。
彼らはみな迷い、みなひとしく腐れた。
善を行う者はない、ひとりもない。
すべて悪を行う者は悟りがないのか。
彼らは物食うようにわが民をくらい、
また主を呼ぶことをしない。
(1〜4節)

真に賢い者とは

神を賛美するダビデ王
(ルーベンス画)

 

 「愚かな者は心のうちに『神はない』と言う」とありますが、「愚かな者」の反対は「賢い者」です。「賢い」とか「愚か」とは何を基準にしているのか? 2節を見ると、「主は天から人の子らを見おろして、賢い者、(すなわち)神をたずね求める者があるかないかを見られた」とありますように、それは神を求め、神と偕に生きているかどうか、ということです。

 今の人々は、そう思っておりません。「神と偕に歩くなんて、そんな愚かな、馬鹿なことがあるものか」と言います。それに対して聖書は、神を求め、神と偕に生きることが最も賢い、と言うのです。これは、こじつけではありません。私の信仰の実験によっても、確かであります。

 神を知って歩く者が最も賢い者であり、神を知らない者はまことに気の毒であります。気の毒であるばかりか、神を知らないために世の中まですっかり乱れてしまいます。

 箴言(しんげん)に有名な言葉があります。「主を畏るるは、知識の本(もと)なり」(1章7節)。「畏るる」とは、神を畏れかしこんで礼拝するという意味です。それが「知識の本、はじめ」である。すなわち、本当の知識とは、神を畏れることを知っていることにある。この世の大学で学んだり、この世で学問をした者が賢いのではない。神に接し、神を発見した者が、最も賢いのであります。

 私は、いろいろなこの世の誉れ高い人や有識者、宗教上の学者たちとも会って話す機会があります。彼らは、それぞれの専門の分野については、詳しく何かを知っております。しかしながら中には、「人間である」ということについて、「この人生をいかに生きるか」などについては何も知っていない人たちがいます。なんとつまらない人たちだろうかと思います。

 あれだけの学問をしているけれども、何ゆえ彼らは愚かなのか。それは神を知らないからです。神を知らないから、この全宇宙を支配している基準というものがわからない。世の中の思想の流れが変わるたびに、あっちに移りこっちに変わりして、せいぜい自分の主義、信念を言う程度を出ない。自分を超えて生きるという「賢さ」をもっておりません。

 「彼らは腐れはて、憎むべき、不敵な事をやる」(1節 私訳)。それというのも、神を知らないからです。神を知っていたら、また神の声を聴いていたら、あんな愚かな、馬鹿げたことはしないはずだと思うことがある。だが、悲しいかな、神を知らないばかりに、そういう結果に陥ります。神を知るとは、神の概念を知ることではない。ありありと神に触れることです。

聖書における善

 「主は天から人の子らを見おろした」(2節)。ここで「人の子(原文のヘブライ語でベン・アダム)」という言葉は、聖書の概念では、神を知っている、人間らしい人間のことをいいます。イエス・キリストもご自身を、「人の子」と言われました。ですから、主が天から見られたのは、神を知らない人々ではありません。異教徒たちを見られたのではなく、これは旧約聖書の時代ですから、イスラエルの民を見られたのです。彼らは、自分たちこそ「人間らしい人間」と自負していたからです。今で言うなら、全世界にたくさんのキリスト教国があり、いろいろなキリスト教の教派があるが、そのようなキリスト教界のことでしょう。

 そのような「人の子ら」と自称している者たちを、主は天から見下ろして、彼らの中に賢い者、すなわち神を求め、神に生きている者があるかどうかを見られた。けれども1人もいなかった、というのです。

 ほんとうに賢い者とは誰か。「善を行なう者」です。ところが、善とは何かが問題です。善はヘブライ語で「トーブ」といい、「善きこと、美しいこと、愛すべきこと、幸福なこと」を意味します。聖書では、人間の判断で「私は善い、あの人が悪い」などという倫理的なことを「善」というのではありません。神の御旨を行なうことが最善なのです。神のご計画を知って、神を見上げて生きている者が最も賢い。そういう人が善きことをなし、また知っているといえるのです。

心開けて悟る

 「すべて悪を行う者は悟りがないのか。彼らは物(原文ではパン)食うようにわが民をくらい、また主を呼ぶことをしない」(4節)。原文は「悪を行なう者たちよ、悟りがないのか」です。聖書では、神を知らないことが「悪」です。

 昔も今も、搾取階級、支配階級というものがある。もしここで言われているのが、イスラエルの民の問題であるとしたら、イスラエルの長たるべき者とは、当時は宗教的な時代ですから祭司たちや政治を司(つかさど)る長老たちのことでしょう。そういう権力者が、パンを食うように人間を食いつぶしている。「人間の尊さは、神の御意を知って、御意(みこころ)が天になるごとく地上に行なうことができる点にある」ことを知らずに、人間を卑しめて過ごしている。「人間なんて何だ」と十把一絡げにあしらわれ、すべての人の個性が無視されている。そんなときに何が私たちを救うのか。それは神を知ることです。神を知ることなくして、本当の救いというものはありません。

 「悟りがないのか」とありますが、宗教的悟りにはなかなか入りにくい。しかし、私たちはいろいろな機会に、パッと心の目が開かれるに至るものです。開かれてみたら、ありありと神が実在したもうことを知り、神に従って生きることが、いかに幸いで善きことであるかがわかります。神を知らないために、善きことが何かわからず見失っている。善きことにハッと目覚めてそれがわかればこそ、神がわかるのかもしれません。

(1966年)

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