たえず死に向き合いつつ

 彼の音楽は、死の陰りさえない清く澄み渡ったメロディーをもっています。毎日不安に怯えて生きなければならない生活。それだけに、もっと内面的に輝かしいものを表現したいという思いで作曲しているのがわかります。

 モーツァルトにとって音楽とは、今の時代に音楽学校などで勉強する音楽とは全く違うものでした。死の闇路をも突破できるようなものを、音楽と言ったんです。だから、彼は天の音楽を聴きつつ、どんな貧乏にも甘んじてあらゆる苦労を忍ぶことをいといませんでした。外に失ったものを内に取り返して創造する、魂の大きな喜びがあったからです。これこそ宗教の境地です。こういう宗教が私たちに開けること、これが私の願いです。

 そして、私が不思議に思うのは、彼が死というものに密接していながらも、いつもそれに励まされているということです。ここに永遠の生命の発見があります。永遠の生命ともいうべきものでもなかったら、苦難を乗り越えて生きようと思っても、とても生きられません。

 モーツァルトは死期が迫ると、真夜中なのに目をキッと見開いて床の上に起き上がった。そして壁にもたれかかって、安らかに眠るように目を瞑りました。天国を望むような不思議な光景でした。「音楽の力で、私たちは死の暗闇の中も楽しく進んでゆく」という言葉のとおり、見事な大往生でした。

 吹雪が荒れ狂う中での葬式は、簡単に片付けられました。埋葬には家族の者さえ出席せず、悪天候のため友人たちも参列をあきらめ、葬儀人夫の手で郊外の共同墓地の片隅に葬られました。それで、その場所すらわからなくなってしまいました。

 冷たい世の刺激に、彼の外なるものは傷つけられ侵されたでしょう。しかしモーツァルトは、内側だけは侵されまいとして、必死に魂から作曲をしつづけたのでした。悲惨な生涯でしたが、彼の残した不朽の芸術作品は年とともにその輝きを増し、多くの人に感動を与えています。

寂しさの極みに堪えて

 ベートーベンは、モーツァルトの最も熱心な崇拝者でしたが、彼の一生も寂しく気の毒でした。ですから、ベートーベンはしばしばこんな祈りをしています、「神様、私を救いに来てください! 私の祈りをお聴きください」と。

 彼は25、6歳の頃から、耳が聞こえなくなりはじめました。しかし、祈りつつ、肉体で失ったものを精神において取り返そう、そして戦って勝とう、という信仰が芽生えた時に、見事なほど内面的に深いメロディーを奏でることができました。

 彼が死ぬ前になってシューベルトがやって来ました。ベートーベンはすでに口もきけなくなっていましたが、その少し前に、シューベルトが作った『美しき水車屋の娘』の楽譜を見て、「実に神の傑作だ。シューベルトには神の火花が宿っている」と話しています。すべてのこと、ベートーベンは神の恵みに帰しました。今の多くの人々はそのように、神の恵みに帰したりはしません。何事も自分の努力によってできたと思っているのが普通です。

 ベートーベンが死んだのは、3月というのに猛吹雪の夜でした。しかも雷までゴロゴロ鳴り渡りました。しかし自分が死ぬということを自覚した時に、「さあ諸君、拍手したまえ。喜劇は終わった」と言ったといいます。自分の人生を、一幕の喜劇だと言ったのです。

 次々と女性に恋しても叶わず、最後には愛して育てた甥のカールも彼の許を去ってしまう。人を愛する気持ちをいっぱいもちながら、愛されること薄く死んでいったのがベートーベンでした。そのように一生を寂しく過ごしました。モーツァルトも同様でした。しかし、寂しさの極みに堪えて生きる、ということが宗教の土台です。同時に、こういう人たちを思い起こすと、「死を見つめる」ということが、いかに芸術の裏づけになっているかを学びます。

 昨今はやりの音楽とはずいぶん違い、多くの学者や科学者の研究の精神を鼓吹することができたのは、モーツァルトやベートーベンなどの音楽です。

永遠の生命を抱いて生きる

 あとひと月もするとお盆ですから、こういう話をするんです。死というものは人間のいちばん最終の、確実に行き着くところですのに、人は皆考えたくないものです。だが、私たちはこうやって、まともに死を見据えて考えられるとは嬉しいことです。

 私たち、いずれは死にます。しかし、その死の底を支えている何かを発見しなければならない。これが、イエス・キリストがどこまででも叫んでやまなかった「永遠の生命」、聖霊の御注ぎ、神の小羊の御血に象徴される、あるものでした。

 イエスの弟子ペテロは、「主よ、私たちは、誰のところに行きましょう。永遠の生命の言葉をもっているのはあなたです」と言って、キリストにどこどこまでもお従いしようとしました。私たちは、イエス・キリストが「わが肉を喰え、わが血を飲め」と言われたように、キリストの御血汐によって養われない限り、永遠の生命を得ることはできません。

 すべてが亡びゆき、無に帰してゆく中、この大宇宙といえども消えてゆき、天を仰いでも地に伏しても何も頼るものがない時に、私たちが信仰の目をもって見るならば、イエス・キリスト、その中に宿された生命、死んでも生き返る生命があることを知るんです。お互い、この生命をもつ兄弟姉妹であることを感謝せずにはおれません。

 神様、よくぞこの地上に、この時代に、この今に、会わせてくださいました、とみんなで感謝し、祈ろうではありませんか!

 天のお父様、厳かな思いをもって、昔、地上に在りたまいしイエス・キリストの御言葉を通して、私たちは襟を正されて学ぶ思いであります。キリストが血を流しても私たちに注ごうとされる聖なる御霊、一切が亡びても亡びない永遠の生命を、どうぞ私たちに焼きつけて、裏打ちしてくださるようにお願いいたします。そのときに、短い人生もほんとうに大勝利であります。どうか、死の闇路も神の喜びの歌声をもって突破いたしとうございます、進んでゆきとうございます。

 死よ、何ものぞ! 黄泉(よみ)の力よ、何ものぞ! 神様、私たちはこれらのものに打ち勝つ人間とされたことを感謝いたします。

(1973年)

※「天のメロディーを奏でつつ 第1回」はこちらをクリック
※「天のメロディーを奏でつつ 第2回」はこちらをクリック