前回に引き続き、1973年11月、手島郁郎が召天の5週間前に語った、日曜礼拝での最後の聖書講話です。

イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」
(ヨハネ伝6章53~54節)

 イエス・キリストは「わたしの言葉のうちにとどまっておるなら」と言われましたが、これはキリストのお言葉や教えを、ただ覚えているということではありません。

 私たちに必要なのは今、神の御言葉の中にすっかり浸りきって、神と一つになって、もう神秘に絶え入るような境地にあることです。そのような人がわたしの真の弟子である、とキリストは言われるのです。どんな人でも、イエス・キリストが神と偕にありたもうた、あの雰囲気、お姿が胸に焼きついて離れないようになりさえするならば、その人はキリストの真の弟子です。

 また、そのような人は、ただ弟子であるというだけではありません。「真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」とここで言われています。しかし、現在の日本語訳聖書の文字だけを読んでも、本当の意味はわかりません。

「真 アレーセイア」の意味

ヤコブの夢(G・ドレ画)

 この「真理」という言葉は、ギリシア語では「αληθεια アレーセイア」です。現在、多くの聖書では、この箇所の「アレーセイア」を「真理」と訳していますが、これはよくない訳ですね。

 本来この言葉は、「λανθανω ランサノー 隠されている」という語に「α ア 〜でない」という打ち消しの意味が加わったものですから、「隠されていない」という意味です。「隠されていないもの、隠すことができない明々白々たる事実」をいうのです。そこから「真理」という意味も出てきます。

 聖書の中では「アレーセイア 真」という言葉の意味は、第一に宗教的な「真」でして、根本的な実在、目には見えないけれども、隠れなく、厳として存在する「実在」をいっております。「神は真である」というとき、神は宇宙の根本的な実在である、という意味になるのです。

 また「アレーセイア」には、「ありありとした現実」という意味があります。ヨハネ伝4章では、「神は霊であるから、礼拝する者も霊と真とにおいて拝せよ」とイエスが言われています。

 「霊と真とにおいて」という場合の「真」とは、ありありとした事実、生き生きとした現実で、reality(リアリティー)といったらいいでしょう。神は霊的な実在者であるから、拝する者も神様の前に出て、「ハアー、神様!」と感嘆して、手に触れるくらいの感触をもって礼拝するのでなければ本物でない、という意味です。

 真の礼拝というのは、創世記28章において、天が開けて天使が梯子を上り下りするのをヤコブが見て、「まことに主がこの所におられるのに、わたしは知らなかった。これはなんという恐るべき所だろう。これは神の家である。これは天の門だ」と言って驚いたようなことです。本当の礼拝をする者は、そのようなありありとした、生き生きとした事実の感覚、現実の感覚を覚えるものです。

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