ジャン・バルジャンの物語

 それについて、私が若い頃から幾度も読んだヴィクトル・ユゴーの小説『レ・ミゼラブル』の主人公、ジャン・バルジャンのことを思い起こします。

* * *

 百姓上がりの男ジャン・バルジャンは、姉の夫が7人の子を残して死んだので、姉とその子供たちを養うために精いっぱい働いた。けれども失業して、パンを買うお金すらなくなった。

 ある時パン屋に行って、1つだけと思ってつい手を出したところを捕まり、監獄に入れられた。その間、子供たちのことを思うと居ても立ってもいられず、何度も脱獄して、だんだん刑が重くなった。彼が監獄を出た時は、46歳になっておりました。

 監獄を出たけれども、元囚人として嫌われ、あてどもなく街を歩いて宿を求めても、宿にありつけません。みんなが彼の顔を見ただけで恐れます。寝る所がないので、とぼとぼと歩いて、夕暮れ時、寒いのでうずくまっておりましたら、1人の女が、「向かいの教会堂の司教館に行ってごらんなさい。あのミリエル司教という方は神の人と仰がれるような優しいお方だから、あるいは泊めてくださるかもしれないよ」と言うので行きました。

 ジャンが「私はこういう者です」と監獄を出た証明書を見せると、司教は「いや、もうそれは済んだことです。ここは神の家です。あなたは私の兄弟です」と言って、ジャンの身分を気にかけることもなく、温かく迎えました。そして、高価な銀の皿や銀の燭台を持ってきて、晩餐を共にしました。夢のようでした。

 真夜中、目が覚めると、「また今日も監獄か」と思ったら、暖かいベッドの中にいる。夢じゃないかと思ったが、前夜の楽しかったことを思い出した。そして、銀の食器6組のことも。「今どき、べらぼうな金になる。あれを持ち逃げしたら……」と思いだしたら、もう止まりません。抜き足差し足、こっそりミリエル司教の部屋に入りました。もし目が覚めたら殺すつもりでした。

 無事に持ち出すことができましたが、街を歩いていたら憲兵に捕まり、ミリエル司教の所に連れ戻された。しかし司教は、「いいえ、これは私がお土産に上げたんです。あなたが正しい道を歩むためです」。そういう言葉を聞いた時、ジャンは呆然となりました。

 その後、道端に腰掛けていると、1人の少年が嬉しそうに1枚の銀貨をもてあそびながら歩いてきた。ジャンの前で銀貨が落ち、思わず銀貨を足で踏みつけました。少年が「おじさん、ぼくの銀貨を返して。足をどかして」と頼んでも、「ウン、おれは知らんぞ」と言って足をどかしませんでした。とうとう少年は泣きながら立ち去りました。

 やがて足元でキラッと光った銀貨を見て、ジャンは、「ああ、おれはなんという悪い奴だろう。ミリエル司教様からあんなにご馳走していただいたのに盗みを働き、また1人の少年があんなに1枚の銀貨を喜んでいたのにそれを奪って悲しませた。こんなに恐ろしい心が、どうして自分の中に起こるんだろう。ミリエル司教様、ごめんなさい」。ただミリエル司教の皺だらけの優しい面影が、じっとジャン・バルジャンを見つめるのでした。

 数年が経ちました。ある町に、失業した女たちに職を与え、皆から喜ばれている工場があった。工場主は、皆から慕われ、ついに担がれてその町の市長になりました。そして、気の毒な孤児(みなしご)たちや女たち、弱い者たちを庇って善い政治をしました。だが、1人の刑事が「あいつは、あのジャン・バルジャンだ」と睨んでおります。だが、ジャンは素性を明かしません。

 その後ジャンは、かつて仕事の世話をしたある女の娘・コゼットをひどい環境から救い出し、わが子として育てるようになった。やがてコゼットは、花も羞(はじ)らうような乙女となりましたが、1人の青年マリユスと恋に落ちて結婚し、ジャンの許を去ってしまいました。

ジャン・バルジャンの最期(おぐま ゆうだい画)

 やがて、年老いたジャン・バルジャンは、薄暗い裏町で身を横たえて、静かに死を待つばかりでした。しかしその心は、失意にありながらも、神を信じ、人を愛した感謝で満ちておりました。

 最後の息を引き取ろうとした時、コゼットがマリユスを連れてベッドの傍らに現れました。けれども、ジャンは目がかすんで、もう2人の姿を見ることはできません。

 「お父さん、私、コゼットです。ごめんなさい、ごめんなさい」

 「ああコゼットよ、よく来てくれた……人間いちばん幸福なことは、互いに愛することだ。おまえの母親は、おまえをほんとうにかわいがった。その姿を見て、私もおまえをほんとうにかわいがったのだよ。どうか2人とも、深く愛し合うということだけは忘れないように。そうしたら人生は、ほんとうに幸福だよ……」と言いながら永遠の眠りにつきました。

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 これがジャン・バルジャンの生涯です。

(1973年)

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