本講話は、手島郁郎が召天の5週間前に語った、最後のヨハネ伝の講話です。主治医からは15分以内と注意を受けていましたが、講話は1時間以上に及びました。

 今日は非常に身体が悪いですから、ヨハネ伝8章31~32節だけお読みしたいと思います。

 イエスは自分を信じたユダヤ人たちに言われた、「もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。また真理を知るであろう。そして真理は、あなたがたに自由を得させるであろう」
(ヨハネ伝8章31~32節)

 ここでイエス・キリストがご自分を信じたユダヤ人たちに語られた言葉は、大切なことです。この人たちはイエスの弟子になろうと思って信仰に入ったばかりですから、最初が大事です。最初に間違った信仰をもったら、いつまで経っても本当の信仰になりません。

 また、キリストの弟子になるというなら、この言葉がわかるだけでほんとうに十分です。それがなかなか、今のクリスチャンにはわからないんですね。

キリストの言葉に宿る

 ユダヤ人たちがイエスを信じてお従いしようとしましたら、「せっかくわたしの許(もと)にやって来るなら、君たちのようじゃだめだよ」と言って、真の弟子はどういうものかということを説かれたのです。そして、「もしわたしの言葉のうちに留まっているなら、真の弟子である」とおっしゃった。それは、何かキリストの教訓を守っていればそれが弟子だ、という意味ではありません。

 ギリシア語の原文を読まれたらわかりますが、「わたしの言葉の中に留まっている(μεινητε メイネーテ)なら、わたしの弟子である」と言って、「μενω メノー 留まる」という語を使っています。この言葉には、「留まる、宿る、合一する」などいろいろな訳し方がありますが、ヨハネ伝で非常に多く使われており、ヨハネが重要視していることがわかります。

 これを何と説明しましょうか。このような賛美歌があります。(静かに賛美歌をうたいだす)

日くれて四方(よも)はくらく わがたまはいとさびし
よるべなき身のたよる 主よ、ともに宿りませ

 この「ともに宿りませ」は、英語の原詩では「abide with me アバイド ウィズ ミー」という言葉です。これは、小鳥が巣に宿るようなときに使います。私の住む大田区の家の庭木には巣箱がたくさんかけてありますが、小鳥は巣ごもりし、巣の中に留まっていなければ安心して眠ることはできません。また、雛が孵(かえ)ると、雛鳥たちは餌を運ぶ親鳥の声を聞いて喜びます。

 私たちもキリストの言葉の中に留まっていないならば、本当の弟子ではありません。それはただ教理を信じたり、またイエスの言葉の端々を信じる、などという程度のことではない。家の中で、小さい子供が「お母ちゃん」と呼んだら、「はい」と応える母親の声が聞こえてくるように、ほんとうにイエス様のお言葉が聞こえてくるような状況をいうのです。

 もし、キリストの御言葉の中におるというのならば、「ああ主様、問題があります。どうしましょう」と言ったら、キリストの神様が「ウンウン」とすぐ応えてくださるように、密接な神との合一、神と一つになった神秘的な関係にあるはずです。このような状況になったら、キリストの本当の弟子です。

 どうでしょうか、お互いそのように常住坐臥、寝ても覚めてもキリストの御言葉の中に囲まれて生きているでしょうか。ほんとうにどうだろうかと思うと、そうでありません。

 私は今度病気をしまして、しみじみ嬉しいのはこのことです。目をつぶると、また目を開けても、私が休んでいる上に、この六十幾年、私を愛して導いてくださったキリストの御霊は、神様はじーっと見つめて、弱りきった私の身体をご照覧です。また、幾人かの天使たちがイエス様のお側にあって見守っている。ああ、神様! 私はなんと不思議な中に生きているんでしょう(泣きつつ)。こんな破れかぶれの身体、死んでもいい身体をなお見ていてくださる。また地上には、愛する兄弟姉妹たちが心配して看てくださる。私は死んでも幸福です。幸福です……。

(1973年)

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