主の御霊が共に証しする

 同様のことは、ヘブル人への手紙にも「この救いは、初め主によって語られたものであって、聞いた人々からわたしたちにあかしされ、(ただ証しされただけではなく)さらに神も、しるしと不思議とさまざまな力あるわざとにより、また、御旨に従い聖霊を各自に賜うことによって、あかしをされたのである」(2章3~4節)とあります。いいですね、これが大事です。

 すなわち、自分が主体的に真理を述べるだけではない。それ以上に神もまた、その真理を裏づけるために証明してくださる、ということです。これは、キリストの福音に独特なことです。

 ですから、私たちが福音を宣べ伝えるときに、私たち自身に聖霊の雰囲気が伴わなければ証しにならないということです。いくら「命がけでやります。死に物狂いでやります」などと言っても、口で言うのは易しいことです。何度もそういうことを言う人がいます。私は、「何度そういうことを言うんだ」と叱るんです。

 主の御霊が共にあって、共に働きたまわなければいけない。すなわち、私たちにそのような徴(しるし)が伴っているなら、キリストが共に働いてくださっているということです。

 「人が反対しても、自分の信ずる真理を証ししつづけて死んでゆかねばならない」と言って、ブルーノのような立場がキリスト教の真理の弁証だとする人もいる。「証し μαρτυρια マルテュリア」という言葉は、ラテン語の「martyr マルティル(殉教者)」という語の元になりました。すなわち、その真理のために殉教するくらいの、命をかけるくらいの気概で証しするのが、本当の証しだというわけです。

 たしかに、日蓮上人でも殉教を恐れず、時代に反して法華経の真理を鎌倉の辻で叫びました。明治維新後の熊本で、神風連(しんぷうれん)の若者たちは時代に抗して戦い、ほとんどの人が見事に死んでゆきました。命をかけて自分の信ずる道に歩きました。実に立派でした。真理のためには、命をかけなければどうしてもできないことが、確かにあります。

 ところがイエス様は、必ずしもそうではない。昔から「2人の証人が証しするときにそれは正しい」というが、キリストの意識は「わたしは1人ではなく、わたしを遣わされた方と一緒だ」というものでした。「わたし自身のことを証しするのはわたしであり、また(同時に)わたしを遣わされた父もわたしを証ししてくださる。神様と自分が証ししている、2人なのだ」と言われる。ここに、イエス・キリストの証しの仕方と、ブルーノやガリレオのような証しの仕方との違いがあるのです。

神様だけが知っている

 私は偉い学者ではないから、ブルーノが正しいのか、ガリレオが正しいのか、それはわかりません。まあ人間、その時、その場、その状況があって、恥を忍んででも生きなければならないときもあります。命を捨てるばかりが能ではないと思います。

 私の若い頃、近所に飲食店を経営する婦人がおりました。ある実業家との間に私生児をもうけましたが、父の名を明かさず、独りで立派に子供を育てていました。私は、ほんとうに健気だなと思ったことがあります。その人は何でも私には話してくれたけれども、「そう、そんなに辛かったの」と言って共に泣きました。誰にでも、人に言えないようなことがあります。

 イエス様は「父なる神様だけがわたしを知っていてくださる」と言って、徹底的に何の証人も必要としていません。裁判では2人の証人が必要であるというなら、神様とわたしが証ししている。それで十分だ、というのです。

 ブルーノなどのように、真理とは自分が命をかけて守るものだ、と悲壮な感じに捉えるのが普通の考え方です。しかし、このヨハネ伝の箇所を読んで感ずることは、そうではない。「わたしを愛してくださり、わたしをこの地上に送ってくださった神様だけがわたしを知っていてくださるなら、それで満足だ。だからわたしは、わたしについて証しするのである」ということです。

 人知れず恥を忍んで生きなさったあの婦人の姿。私の目に焼きついています。それから私自身も、「ただ、神がすべてを知りたもう」と思うようになった。その時に、人の批評は恐ろしいけれども、人が何と言おうが、恐れまいという気持ちが湧きます。神様がご存じならば、やがて神様はきっと証ししてくださる。この地上でできないなら、あの世に行ってでも証しができる。

 多くの神なき人たちは天国というものを知らないから、死んだ後もこの世の嫌な苦しい状況がずっと続くと思います。しかし、キリストとその光の子たちの運命は、全然違います。貧しい人、落ちぶれておるような人でも、その人が天国の生命、永遠の生命を宿して生きていれば、たとえ死んでも、天界が、天国が、その人を待ち受けて大事にしてくれるのです。

 キリストは、ご自分がどこから来てどこへ行くかを知っておられました。多くの人はそれを知りません。それで宗教生活、霊魂を育てるということをあざ笑っていたら、えらいことになります。次の世界への準備をすることは大切なことです。地上において、貧しい生活をしていても、心は天使のように過ごしている人たちがおります。また、そのような心をもって地上を生きることは、ほんとうに楽しいですね。

(1973年)

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