本質に出合わなければ

 イエス様が、「あなたがたはわたしを捜すが見出さない。わたしがいる所に来ることができないだろう」と言われたこの言葉は、まさに『碧巌録』のいちばん最初に挙げられているのと同様、宗教上の大きな問題です。たとえ皇帝が武力をもって達磨を連れ戻したとしても、それは肉体の達磨を連れてきただけで、達磨の実存に、魂に、本質に出合ったのとは違うように、その人の本質を見抜かなければ、会ったとしてもほんとうに出会ったことにはなりません。

 宗教は、人の紹介や評判で信じている間はだめです。いろいろな大先生の紹介や、推薦文などを読んでいる間は、だめだということです。それは偉い人の権威を借りて感心しているだけのことで、たとえ見た目は石ころでも、その中にダイヤモンドを見出すこととは違います。これは偉いもんだ、といって感動することとは別のことです。

 イエス・キリストが、多くのユダヤ人の宗教家から非難、迫害されるさなか、ペテロのように、「主よ、あなたこそ来たるべき救世主(メシア)です」と眼(まなこ)開けて言う人とは、そこが大違いです。

 今のキリスト教は、「イエスはキリストである」という定義がもうできているから、それを信じている。だがほんとうに、今も霊として生けるキリストに出会う、というような経験はなく信じております。だから、現在のようなキリスト教は廓然無聖、ガランとして聖なるものは何もない。ただ十字架をシンボルとして掲げているだけのことです。ですから、西洋のキリスト教の注解書などには、『碧巌録』のような宗教の本質に触れる問題は書いてありません。

 今のキリスト教は、「イエスはキリストである」という定義がもうできているから、それを信じている。だがほんとうに、今も霊として生けるキリストに出会う、というような経験はなく信じております。だから、現在のようなキリスト教は廓然無聖、ガランとして聖なるものは何もない。ただ十字架をシンボルとして掲げているだけのことです。ですから、西洋のキリスト教の注解書などには、『碧巌録』のような宗教の本質に触れる問題は書いてありません。

 それならば、どうしたらキリストに出会えるか。それは、このあとの箇所に書いてあります。

霊的なキリストの現在

 祭りの終りの大事な日に、イエスは立って、叫んで言われた、「だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。わたしを信じる者は、聖書に書いてあるとおり、その腹から生ける水が川となって流れ出るであろう」。これは、イエスを信じる人々が受けようとしている御霊をさして言われたのである。すなわち、イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊がまだ下っていなかったのである。
(ヨハネ伝7章37~39節)

 「わたしのところに」は、「わたしに向かって」ですね。「わたしを信じる」は、「εις エイス ~の中へ」という前置詞がついていますから、「わたしの中に信じ込む」です。

 その腹から生ける水をたたえた川が、人間の腹の真ん中から流れ出すというのです。そんなに腹から水が出たりするものかと、信仰のない、キリスト教の予備知識がない普通の人だったら思うでしょう。だがこれは、私たちの心のどん底、お腹の底から、神の生命の水が湧き出すという経験を、象徴的に、シンボリカルに言っているのです。普通の人間と違った愛、喜び。救いの井戸から水を汲む、とでもいうような喜びが湧く経験があるのです。

 エルサレムの町の南にシロアムの池という池があります。ここから滾々(こんこん)と泉が湧いています。この水は涸(か)れることがありません。仮庵の祭の間の8日間、毎日この水を汲むんです。そして神殿の祭壇に注いでおりました。その時、喜びを表すラッパが吹かれた。この儀式は、生命の水が湧くことのシンボルです。だが、祭りが終わってしまい、シンボルがシンボルに、儀式だけにとどまったら何にもなりません。それがほんとうに生きて、人間に体現されなければだめです。

 それは、その生命に生かされている人間を見なければわからない。イエス・キリストにおいては、ほんとうにそのシンボルは生きていました。

 「(イエスを信じる人々が)受けようとしている」は、原文ではただ未来形ではなく、「確かに受けるべき」です。イエスが人間として生きておられた間は受けていなかったかもしれないが、十字架にかかって復活された後、受けることになっている御霊を指して言われたのです。

 イエス・キリストは十字架に血を流してでも、ご自分が宿している永遠の生命を人々に注ごうとされました。キリストが昇天されたのち、弟子たちはペンテコステの朝、祈っている間に、神の御霊、聖霊を受け取った。すると、イエス・キリストは死にたまわず、今も生きておられる、ということを感ずるようになりました。弟子たちは皆、活き活きと生き返った。そして、地の果てまで出かけて、「キリストは今も生きている」と復活の証人となった、ということはお互いが知っているとおりです。彼らは弱い信仰の者たちでしたが、それからというもの、力強く豊かに生きてゆくことができました。まさに、キリストの現在に出会ったからです。

 聖なる御霊が一同に臨んだ時に、彼らはキリストの現在、プレゼンス、今ここにおられるということを感ずるようになった。自分は一人ではない。同行二人(どうぎょうににん)、キリストと偕に生きているのである、という経験が弟子たちの内に起こりました。

 このように、聖霊が私たちの中に、もう腹のどん底から充ち満たしてくるように、聖霊の雰囲気に包まれる経験がない限り、イエス・キリストに出会うということはありません。武帝が達磨大師を知ることがなかったように、ただ人の噂や言い伝えを信じているだけで、ほんとうに生ける神に出会うということにはなりません。

 私たちも、どうぞ噂を信ずるのではなく、ほんとうにキリストの中に信じ込み、聖霊でありたもう神にお出会いしとうございます。そして、私たちの一人ひとりに聖なる御霊が宿って、内側から生命の水が、もう滾々と湧き出すように潤い、また、周囲の人々をも潤すほどに至りたいと願います。

(1973年)

※「キリストの現在する所 第1回」はこちらをクリック
※「キリストの現在する所 第2回」はこちらをクリック