ヨハネ伝が問題とすること

 さて、エルサレムのある人たちが言った、「この人は人々が殺そうと思っている者ではないか。見よ、彼は公然と語っているのに、人々はこれに対して何も言わない。役人たちは、この人がキリストであることを、ほんとうに知っているのではなかろうか。わたしたちはこの人がどこからきたのか知っている。しかし、キリストが現れる時には、どこから来るのか知っている者は、ひとりもいない」。イエスは宮の内で教えながら、叫んで言われた、「あなたがたは、わたしを知っており、また、わたしがどこからきたかも知っている。しかし、わたしは自分からきたのではない。わたしをつかわされたかたは真実であるが、あなたがたは、そのかたを知らない。わたしは、そのかたを知っている。わたしはそのかたのもとからきた者で、そのかたがわたしをつかわされたのである」
(ヨハネ伝7章25~29節)

 「イエスがどこから来たのか」、また、「それを知っている、知らない」などという記事を読むと、「一体なんだろう。そんなことはどうでもいいじゃないか」と思われるかもしれません。

 だが、「来処如何(らいしょいかん)、去処如何(きょしょいかん)」、どこから人間は来たのか、どこへ行くのか、これを知ることは宗教上の大問題です。キリスト教だけではありません。仏教においても同様です。どこから来たか、どこに行くか、を問うことは、私たちの地上の生涯を全うせしめるか、せしめないかの分かれ道となります。

 私たちはこの地上に生み出されて、生き、やがて死んでどこかに行きます。「どこから来て、どこへ行くのだろうか、と思ったら、ほんとうにはかない人生だ」と言う人もあります。しかし一方で、「ああ、生まれてきてよかった」と言う人もあります。

 自分の魂はどこに脱してゆくのだろうか、このことがほんとうに解決されませんと、私たちは活き活きとして生き抜いてゆけません。

(1973年)

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