聖霊が臨む経験

 長い間、西洋のキリスト教では、マリヤは処女懐胎をした、その聖(きよ)い乙女が生んだ子であるから神の子だ、というようにキリストの聖誕の意味を解しております。それでもよいですが、聖書はそれを中心にしておりません。もっと大事なことは、石女(うまずめ)のエリサベツに子が授けられ、またマリヤが身ごもった、それは聖霊が臨んだからだ、といって聖霊の御業を強調している点です。

 御使いはマリヤに、「恐れるな、不思議なことはあなただけでない、エリサベツにも始まっている」と告げました。聖霊がマリヤに臨むための準備を、神はマリヤの親しい人たちの中に着々と行ないつつありました。まずエリサベツの夫ザカリヤに天使が現れて、ヨハネの誕生を告げた時、ザカリヤは唖になるほど聖霊に打たれました。また、マリヤの夫になるべきヨセフは、夢の中で御使いのお告げを聞いて心準備ができていました。このようにして聖霊が臨むための準備がなされたのです。

 聖霊が人間に臨むという出来事は、預言者という人たちを除いて、普通の人は滅多に経験することがありませんから、心の準備ができていない人には恐ろしくて堪らないことです。けれども一方で、神の力が臨まなければどうしても運命が変わらない人もおります。そのような人に、突如として聖霊が臨みたもうことがあります。その時、マリヤのように「私は主の婢女(はしため)です。私でよかったら、どうぞお使いください」と言って、主のお働きの道具となる人間が出ることを通して、新しい時代が、新しい霊的活動が、神の国の働きが始まるのです。そういう人が出ない限り、神は働こうにも働けません。これはクリスマスにおいて与えられる教訓です。

 神が働きかけたもう時、どのように働こうとしておられるか、またどういう方向に私たちを引っぱってゆこうとされるのか、私たちにはわからないことがあります。たとえば、マリヤにとっては、結婚前に私生児を生むということは、耐えがたいものでした。しかしそのような矛盾をも、聖霊に満たされていたから乗り越えることができました。

 そうでなかったら考え事にして、煩悶(はんもん)だけに終わったでしょう。けれどもマリヤは聖霊に満たされていましたから、「神様は、こんな卑しい女をも顧みられる。ああ神様、嬉しい!」と優れた信仰的発見をしました。そうしてお生まれになったのがイエス・キリストです。

(1965年)

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