人が捨てて顧みない者を

 ルカ伝1章29節に「マリヤはひどく胸騒ぎがして」とありますが、私たちの集会に初めて来られた方はよく、胸騒ぎがするようだった、と言われます。そのように、胸騒ぎがするようなところから、聖霊が臨むという現象が起きるのです。神の霊、神の生命に接触するということは、平凡な出来事ではありません。平凡でないことが起ころうとするときに、胸騒ぎがするのは当然です。だから天使が、「恐れるな、マリヤよ」と言ったのです。普通の人間がしないような神秘な経験に入るということは、ただごとではありません。それをマリヤが「そんなことは私は嫌です」と言ったなら、神の力が働くこともなく、キリストが誕生することもなかったでしょう。

 天使ガブリエルがやって来て、「聖霊が臨む。あなたは身ごもって男の子を生む」と告げた時に、マリヤは惑乱しそうでした。若いヨセフとマリヤにとって2度とない人生です。結婚とそれに続く美しい生活が破壊されるというのですから、辛いことです。「嫌です」と言うのが当たり前です。しかも御使いは、「おまえが生む子供はダビデの位に座し、霊的イスラエルの王として、その支配は永遠に続くであろう」と言いました。

 マリヤは、自分のような卑しい者にそんなことがあるだろうか、と思ったことでしょう。この世的に考えるなら、身分が高く、よい者から優れた人物が出るのであって、身分の卑しい者からよい者が出るとは考えられません。しかし、神は愛です。神の愛はこの世の愛と違って、価値のない者をも愛してくださる愛です。そこでマリヤは、「マリヤ賛歌(マグニフィカート)」をうたいました。

わたしの魂は主をあがめ、
わたしの霊は救い主なる神をたたえます。
この卑しい女をさえ、心にかけてくださいました。
見よ、今からのち代々の人々は、わたしをさいわいな女と言うでしょう、
力あるかたが、わたしに大きな事をしてくださったからです。
(ルカ伝1章46~49節)

 これがキリスト教の信仰です。マリヤは「私は卑しい、価値のない女です。けれども神様は、人が捨てて顧みないようなこんな私を、顧みてくださった」と言って神を賛美しています。

 素晴らしい者から素晴らしい者が出てくるのは当たり前です。けれども、つまらない者を神が顧みたもう時に、神の大いなる力が働いて不思議なことが起こる。ここに救いがあります。

 普通の人はそういう大いなる力を欲しません。自分は現在のままでやってゆけるから、今の幸福をいじってもらいたくない、と言って、神に干渉されることを嫌います。けれども、神の力が覆ってくださらなければ自分は惨めな生涯で終わってしまうと思い、真剣に神の力を欲していた人たちがいたから、イエス・キリストや洗礼者ヨハネが生まれてきたのです。

(1965年)

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