神ご自身に学べ

 今の人は、宗教的な知識というものは何か哲学することによって、神学書を読むことによってわかると考え違いをしております。「学んだこともないのに、なぜ教えられるのか」という、このようなわずかな一句ですけれども、私にとっては大きな慰めです。

 初期の日本キリスト教界の指導者であった植村正久先生は、聖霊の体験をもっておられた人です。教会で講壇に立つ時に、もし聖霊に満たされておらず、神のご臨在を感じないときは、講壇に立つのをやめて他の人に頼まれたという。ほんとうにそうでなければいけないと思います。世の哲学、人の思想を読んで伝えるのならば他の誰にでもできることです。何か読みかじったことを告げることによっては、人は救われないんです。

 よく私はいろんな人から、また教会の牧師さんたちから聞かれる、「あなたはどこの神学校を出たのですか?」と。

「私は長崎の高等商業を卒業しただけです。商売の学校です。商売なら上手です」と言うんですね。それで愛想を尽かして、離れる人たちもたくさんあります。

 それだけに、学びしことなき者が宗教を伝えるということについては、「この世の中に誰も私を教えてくれる者がない時に、今も生きたもう主よ、どうぞここに臨在して私を教え、一人ひとりのハートに触れて、どうか教えてください」と祈るしかないのです。

 神ご自身に学ばずに誰に学ぶのか。人々は伝道者に学ぶ、牧師さんに学ぶという。だが、人に学んでいる間はだめです。キリストから直接教えられる信仰を身につけなければだめです。

 夏になると私の集会は1カ月休講にしております。「それでは、信仰は、伝道はどうなりますか」と言う人がいます。でもそれは1カ月の間、先生などというものを抜きにして、一人ひとりが神と偕にお歩きになる機会を作り、「これだけ独り歩きした。神に直に教えられた」ということを、ぜひ学んでほしいからです。神ご自身と歩かなければ、信仰が身につくものですか。

(1973年)

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