聖書を学ぶ精神

 先日、長野県白馬村での聖会の最後に、私は静岡で伝道している若いN君を叱りました。そして、謹慎を命じました。1週間ばかり経ったら彼は東京にやって来て、「先生、悔い改めました。お許しください」と言うが、「会わぬ、帰れ」と言って、私は許しませんでした。

 後で人を通して伝えました、「祈って非を悟ったというが、私は信じない。祈ることは寝ていたって祈れる。祈って変わったと口で言っても、一見すれば霊性の状態がわかる。聖書は不朽の聖典だ。その水準に信仰を高めようと学んでこそ、魂は向上するんだ。自己流で解釈しても自分以上には読めない。自分を引き上げるためには、一語一語、原文に照らして、眼光紙背に徹する真剣さが必要なんだ」と。学ぶということは、本気でないとだめです。

 彼は優秀です。また、純情なところがある。だが、彼を大成させるためにどうするか、ということは別です。やはり、鞭を振るうときは振るってやらなければ、大成しませんよ。聖書を学ぶということをほんとうに教えなくては、彼に聖書の講義などできるものか、と言うんです。

 私たちの信仰は、どうしたら向上してゆくか。それは、目標がなければ向上しません。N君のように「悪かった」と悔い改めただけでは伸びはしません。聖書には、素晴らしい霊的な人たちの活躍の跡が書かれています。このような人たちを用いて、神は奇跡をもってでも時代に神の御心を示したもうた。私たちが聖書を読むのは、そのような聖書の水準の信仰に何とか達しようとするためです。ここに、聖書というものを学ばねばならぬ理由があるんです。

 先日も、ある伝道者の聖書を見て、私は「君の聖書はきれいだな」と言いました。原文に照らして書き変えたり、書き込みもなく、勉強していない。彼は神学校を出ていますから、神学といったものに興味があるんですね。神学は本を読んで自分で考えればいいんですから。

 でも、それでは行き詰まります。いい本を読んで知恵を湧かそうと思っている。しかし、聖書に照らして自分の信仰を進めるということさえすれば、何もそんなに頭痛鉢巻きで聖書講義のために神学書など読まんでいいですね。私はただ、聖書を読むだけです。そして、聖書はどのように信仰を伝えようとしているのか、イエス様は何を語ろうとされたのかを深く瞑想するだけです。

 今朝でも、私のように頭の悪い男は、「主様、教えてください。教えてください」と祈るしかありません。知識を仕込めば知的満足はあるでしょう。しかし、神様に用いられるべき者が、用いようとされるお方の心を知らずに何ができましょう。

 正規の宗教教育を受けたことのない私が、九州の田舎から大都会に出てきて伝道するなどということは、恥ずかしい話です。だがイエス様がそうであったということは、私にとって救いです。

(1973年)

※「学びしことなき者が 第1回」はこちらをクリック
※「学びしことなき者が 第3回」は11月22日に配信予定です