宗教は学問ではありません。神を知るということは個人個人の体験に基づくものであって、本を読んだら神様がわかると思ったら大間違いです。イエス・キリストがそうでした。深い宗教的体験というものは、学問によって、また書物によって与えられるものとは違います。

宗教教育を受けていないイエス

 祭りも半ばになってから、イエスは宮に上って教え始められた。すると、ユダヤ人たちは驚いて言った、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」。そこでイエスは彼らに答えて言われた、「わたしの教えはわたし自身の教えではなく、わたしをつかわされたかたの教えである。神のみこころを行おうと思う者であれば、だれでも、わたしの語っているこの教えが神からのものか、それとも、わたし自身から出たものか、わかるであろう」
(ヨハネ伝7章14~17節)

 前回までの箇所では、イエスは兄弟たちから、ご自分の宗教を広めるためにユダヤの大祭である仮庵(かりいお)の祭に行くように勧められましたが、「わたしの時はまだ来ていない」と言って断りました。しかしその後、人に知られないようにエルサレムに上られました。

 そこでイエスが教えはじめられたら、その教えに「ユダヤ人たちは驚いて言った」というのですから、イエスの話には人々の心に迫るような驚くべき権威があった、ということがわかります。

 しかし人々は、「この人は学問をしたこともないのに、どうして律法の知識をもっているのだろう」と訝りました。「学問をしたこともない」とあるが、ここでいう学問とはユダヤ教の師であるラビになるような宗教教育のことをいうのでしょう。また、ギリシア語の原文で「律法の知識」にあたる「γραμματα グラマタ」は、もともと「文字」という言葉です。そこから派生して「旧約聖書、律法」という意味になるのです。「正規の宗教教育を受けたこともないのに、どうしてこの人は聖書の知識をもっているのだろうか」という意味になります。

 イエスは、そのような教育を受けたことのない人でした。それだけに、その権威ある教えを聞いた宗教都市エルサレムの人たちが驚いた、というわけです。

仮庵の祭:ユダヤ教の3大祭の1つで、毎年秋に行なわれる。エジプトから救われたイスラエルの民が40年間、荒野で天幕に住みつづけたことを記念し、1週間の間、屋外に建てた簡素な仮小屋で寝食などをする。

(1973年)

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