大いなるものに己を捧げる心

 どうしてイエスとその兄弟とは話が合わないか。こと、信仰についての考え方が違うからです。私たちにとって信仰は、神にすべてを打ち任せて生きてゆくことです。昔の日本人はそのことを知っていました。しかし今は、自分中心で、自分を神様のような位置に置いてしまいます。

 この50年の間に、悪い意味でずいぶん時代が変わってしまい、非宗教的になってしまったと思います。昔の人たちは今のキリスト教のような信仰をもたなくても、もっと宗教的でした。

 宗教の本質である信仰とは何でしょう。まず自分以上のものに、身を捧げることをいうのです。神様に身を捧げて生きることは、小さくいえば、親族や社会に対して、主君や国に対して自分を捧げて生きることにも通じます。

 昨年(1972年)、会津若松へ行きました。会津藩が官軍と戦って最後に敗れた場所です。しかし彼らは、何も官軍と戦ったつもりではないでしょう。徳川の親藩として、薩長の新勢力に抵抗したんです。

 「ここが白虎隊が自刃した所です」と案内された時、私はしばし頭を垂れました。彼らは16~7歳でしたが、主君のために戦った。そして、形勢の不利を悟ると、潔く自刃してゆきました。

 彼らが出陣する時、ある母親が「梓弓(あづさゆみ)むかふ矢先はしげくともひきなかへしそ武士(もののふ)の道」(飯沼貞吉の母)と詠ったそうです。矢がどんどん飛んできても、武士は退却などはしない。出かけるのなら立派に死んできなさい、こういうことを言えた母親たちは偉かった。今皆さんは、「大義のため、大きな真理のために、あなたが死んでゆくのを母として私は誉めます」と言えますか。

 今の教育では、そんな戦争のために腹切って死ぬのは犬死にだ、と教えるかもしれません。しかし、私が育った時代、そうは教えられませんでした。自分より大いなるもののために死んでゆく人間は尊い、ということを学びました。そのことはほんとうによかったと思います。随分変わってしまったものです。

 現代は、多くの人々が偶像を崇拝はしないでしょう。だがもっと悪いことをしています。自分自身を崇拝することです。自分がいちばん大事ですから、自分が神になってしまっていますね。

(1973年)

※「天の時を知る者 第1回」はこちらをクリック
※「天の時を知る者 第2回」はこちらをクリック