永遠の生命を封印する

 「朽ちる食物のためではなく、永遠の生命に至る朽ちない食物のために働くがよい。これは人の子があなたがたに与えるものである。父なる神は、人の子にそれをゆだねられたのである」
(ヨハネ伝6章27節)

 「永遠の生命に至る朽ちない食物」とありますが、原文から訳すと、「永遠の生命に至るまで、留まる、宿る、保ちつづける食物」という意味です。「働くがよい」というのは、こういう場合は「努力して得よ」です。

 また、「父なる神は、人の子にそれをゆだねられた」とありますが、ここは「父なる神がそれを人の子に証印した」と訳すべき言葉ですね。「証印する」という言葉は、「σφραγιζω スフラギゾー」というギリシア語ですが、これはもともと、小麦やいろいろな穀物を計量した後に袋や壺に詰めて、「正真正銘、この中に何キロの穀物が入っている」という内容証明をして封印する、といった意味です。英訳聖書では、seal(シール)という語を使っております。

 すなわち、穀物などを袋詰めにして封印するように、「神はわたしの中に永遠の生命に至る食物を封印されたのだ」とイエスは言われるのです。なんと驚くべき言葉ではないでしょうか。

 今の日本でも、欧米の聖書学者でも、「イエスという人間の身体の中に、その人格の中に、永遠の生命に至るパンを詰め込んだ」などというようなことは、どうしても理解できないから、直訳できません。したがって、当時のユダヤの民衆がイエスの言われることを理解できなかったのも、やむをえないと思います。

 普通、宗教といえば、何かの教理を信ずることのように思い、イエスが述べた「山上の垂訓」やその他の教訓を信ずることを信仰だと思うときに、イエスはそう言われません。「わたしの信仰は、永遠の生命、すなわち来世にまで続く朽ちざる生命を得ることにある」と言われるのです。

 このイエスの主張は、東洋人である私たちには、西洋人と違ってよほどよくわかります。

 仏教においても、阿弥陀仏というのは、「永遠の光」という意味の仏様ですが、「無量寿如来」 ともいわれる。この「無量寿(むりょうじゅ)」は「永遠の生命」を表しますので、「南無阿弥陀仏」とは永遠の生命と南無(合一)するということです。永遠の生命と合一することは高等宗教の目的です。それは、宗教を理屈や議論の問題にして、教理を信奉することが信仰だと勘違いしている西洋その他のキリスト教とは、はっきり違います。

(1973年)

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