ヨハネ伝6章には、イエス・キリストについてきた5000人以上の人々が荒野で養われたことが記されています。その時、人々がイエスを王にしようとしましたので、イエスはどこかに姿を隠しておられた。そのため、多くの群衆はイエスを求めて捜し回った、と書いてあります。

 そして、(群衆は)海の向こう岸でイエスに出会ったので言った、「先生、いつ、ここにおいでになったのですか」。イエスは答えて言われた、「よくよくあなたがたに言っておく。あなたがたがわたしを尋ねてきているのは、しるしを見たためではなく、パンを食べて満腹したからである」
(ヨハネ伝6章25~26節)

 ここで「先生」とあるのは、ヘブライ語の「ラビ」、宗教上の師という意味です。人々は、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と問うた。皆は舟で来たのに、イエスはこんな所に飄然(ひょうぜん)として来ておられたが、どういう方法で来られたか、不思議に思ったのでしょう。

 けれどもイエスは、人々の質問に対してまっこうから答えられません。「いつ、ここにおいでになったのですか」とびっくりして質問していますから、「自分はこうやって来たよ」と答えるのが普通でしょう。しかしイエスは、問いに対していつもそういう答え方をしておられません。

 禅問答ではないけれども、イエスも逆に問いを発したり、質問とは全く別の、無関係の答えを出されたりするのが常でした。「何だ、わたしがどういう方法でここにやって来ようが、そんなことは問題ではない。もっと大事なことがある」と言おうとされているのです。

(1973年)

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