権力を追求する心

 子供は両親の愛の中で育まれますと、立派に育ちます。しかし小さい時から、母親がいなかったり、働きに出て家庭を顧みなかったりする中で育った子供は、愛というものの憩いを知りません。だから私は、結婚して子供が生まれてから夫婦共稼ぎをするということを勧めません。もし、やむをえず共稼ぎする人があったら、よほど子供を愛するということを心がけておやりになったほうがいいと思います。

 私たち幕屋の1つの特徴は、聖霊の愛です。幕屋に来ると誰もが「愛があるなあ」と言って寛ぐんです。世の中にそのような雰囲気はめったにありません。皆が裏切らない、皆が信じ合える。「神が愛である、神の愛の中に憩う」ということを知ったら、皆がそうなるんです。

 愛を知らずに育った人は権力欲をもつといわれます。自分を保護してくれる者がありませんから、力を求めます。また一般に、恐れを解決するために強い者を立てて権力で保護してくれることを求めたり、自分が権力ある地位につけば安心できると思い、そのような力を求めます。

 宗教においても、何かの地位とか権力を得ようとする、それが出世であるかのように思うならば、それは宗教ではありません。教会の牧師さんの中にも、小さな教会より大きな教会の牧師に、今度はその教区長になりたいと思う人がいる。それは権力を追求する心です。そして人を支配しようと思うんです。

 それは、「あの先生は宗教的だなあ」と皆が尊敬するのとは違いますね。何かの地位につこう、監督になりたい。みんなを監督し、支配したい。だが、そのようなことを目指しましたら宗教心というものは薄れてきます。その逆に、何ものにも頼ることができない、何かの地位や権力に頼ることができない、という状況にあるとき、宗教心は輝いてきます。

 私は無教会主義者でしたから、自分には何も後ろ盾がない。なかったから、「神様、救ってください。頼るもののない私を何とかしてください」と神に叫んだ。叫ぶうちに、不思議な力が湧いてきます。もし地位や権力を願ったならば、私は自滅したでしょう。

 権力だけを追求するということは、自分を破滅させます。実に宗教心を蝕みます。そのような外側の地位にはつくでしょう。人は「偉い、偉い」と言って、ちょうちん持ちをしてくれるでしょう。しかし、人間の中身とは関係ない。ほんとうに実力をもってある地位についている人と、そうでない人とがあります。社会にも、また宗教界にもいます。

 苦しんだあげく、気がついてみたらいつの間にかこういう地位についていた、というならいいでしょう。それは、自分自身が自己完成せしめたからです。

(1973年)

 ※「権力の道と愛の道」の講話は、今回で終了です。

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