今日はヨハネ伝5章30節から読んでまいります。5章の最初には38年間、足腰の立たなかった男の話が書かれております。この男に、イエス・キリストが一言、「起きよ、あなたの床を取り上げて歩め」と言われたら、すぐ癒やされて歩きだした。

 しかし、ユダヤ人の宗教家やパリサイ人たちは、安息日に癒やしをしたことでイエスに反感をもちました。安息日には働いてはならないというのが、ユダヤの律法だったからです。

 それに対してキリストは、「自分は何もしていない」とかさねがさね言っておられます。

 わたしは、自分からは何事もすることができない。ただ聞くままにさばくのである。そして、わたしのこのさばきは正しい。それは、わたし自身の考えでするのではなく、わたしをつかわされたかたの、み旨を求めているからである。
(ヨハネ伝5章30節)

ベテスダの池で病人を癒やすイエス(リッチ画)

 キリストは「自分からは何一つできない」と言われた。しかしながら、長い年月、足腰が立たずに苦しみ、救いを求めている人を見ると、その苦しみを分かち合い、背負いたかった。その苦しみの中に、ご自分も共におりたいと思われたのでしょう。また、それが父なる神の願い、御旨であった。だから癒やしたもうた。ここに、宗教の問題とするところがあります。

 宗教は、人生の苦しみ、これをどう解決するかを一つの大きな課題としています。宗教によっては、この世に生きる苦しみ、矛盾に対して、考えたってしかたがないからと、諦め、悟るべきことを説きます。

 しかし、キリストの宗教はそうではありません。イエス・キリストは、人々の苦しみを共に負おうとしておられる。そのお姿は、十字架上の死にいちばん表されています。キリストは、今も十字架上に血を流しながら、救いを求めている者たちと共に悩み、その求めに応えようとしておられるのです。

(1973年)