イエス・キリストは、過越の祭にあたってエルサレムの町にお入りになりました。そして、まずエルサレムの神の宮において何をなさったかというと、宮潔めということでありました。

 (イエスは)それから宮にはいり、商売人たちを追い出しはじめて、彼らに言われた、「『わが家は祈の家であるべきだ』と書いてあるのに、あなたがたはそれを盗賊の巣にしてしまった」
(ルカ伝19章45、46節)

 同じ出来事をヨハネ伝では、ムチまで作って商売人を追い出したり、屋台をひっくり返したりして大憤慨なさった、と書いてあります。

 私たちは、イエス・キリストといえば羊のように優しい方のように思いますけれども、聖書に書かれたイエス・キリストは、自ら暴力をふるってでも宮潔めをされたお方でした。だが、これはただ乱暴を働くためではない。神聖なるべき宗教が、このように腐敗し堕落しているのを見ると、もう堪らなく思われた。それで乱暴なさったのであります。本当の愛というものは怒るものです。怒ることのない愛というものは、私は愛でないと思います。見るに忍びない不正、不義、それらに妥協して見過ごすのは本当の信仰でもなければ、本当の愛でもありません。

 本当の愛は怒ることができるものです。コリント前書13章は「愛の讃歌」と言われています。神の愛、真の愛を謳っています。しかし私が一つ物足りないのは、なぜあれほどのパウロが「愛は怒る」という一句を付けていなかったのか。「愛は怒る」の一句が欠けた愛の讃歌は、どうも私には物足りない気がします。

 弱い者や、気の毒な人たちに向かっては情の深いキリストが、宗教政治家たちが拠って立つところのエルサレムの神殿において一人、大乱闘なさった。そんなことをすれば、どのような悲劇が身に及ぶか。ユダヤ人たちによって十字架の刑に渡される、ということは自明のことでした。しかし、あえてそれをやってのけられたところに、キリストの勇気、男らしさというものがあります。また、ほんとうに宗教を愛すればこそ、その熱心がかくせしめたのです。

(1960年)