この聖書講話は、1972年5月、日本赤軍が起こした、イスラエルのテルアビブ・ロッド空港乱射事件の直後になされたものです。40年以上経った今も、民間人を巻き込む無差別テロが世界中で横行しています。この講話はテロが起こる原因と対応策を、聖書の観点から説いています。(編集部)
先日の5月30日、テルアビブ・ロッド空港で、日本赤軍による事件が起きました。全く罪の無い26名の人々が殺され、73名にも上る人々が傷つけられました。
私は、この事件を知りました時に、3、4人の日本の青年が起こしたことではないと思いました。これは、日本の文明のいちばん膿み爛れた部分が表に露出しはじめたのであって、やがてこの日本社会、日本の文明というものは崩壊するだろうと、つくづくそう思いました。
私はこの数日というもの、事件のことを思うと食べ物が喉を通りません。イスラエル大使館に出掛けて、エイタン・ロン大使に謝罪を申し上げますと、「日本で起きたことでないから、そんなに気になさらなくていいですよ」と言われました。しかし、私は気にせずにはおれない。
とても償いなどできませんけれども、どうしたらよいものかと思っております。日本人が今後どのように悪し様に言われても、それはしょうがない。だが、日本を愛しているイスラエルの友人たちが、事件後も、「今もあなたたちへの思いは変わらない。私はまた日本に行きますよ」という電話を下さる時に驚きました。そんなに言われますと、ますます痛み入りました。
聖書から事件を見ると
どうしてこんな残虐なことをする青年たちが、日本に生まれてきたのだろうか。どうしてこんな日本になってしまったのだろうか。すぐ思い浮かびましたのは、人間の祖アダムとエバの間に生まれたカインが、罪無き弟アベルを殺したという、旧約聖書の創世記4章の記事でした。今日はこの物語を通して、神の御思いを学びたいと思います。
そこで主はカインに言われた、「なぜあなたは憤るのか、なぜ顔を伏せるのか。正しい事をしているのだったら、顔をあげたらよい。もし正しい事をしていないのだったら、罪が門口に待ち伏せている。それはあなたを慕い求めるが、あなたはそれを治めなければならない」
弟のアベルは遊牧民として羊を飼っていましたが、兄のカインは畑を耕す土着民になっていました。やがてカインの6代ぐらい後の世代になりますと、非常に文明が進みます。そして、天幕に住んで家畜を飼う者の祖となった者、琴や笛を執るすべての者、すなわち音楽や芸術に携わる者の祖先となった者、また青銅や鉄のすべての刃物を鍛える者、すなわち工業の祖になった者が出てきています。
このカイン族の物語を社会経済史的に考察しますと、狩猟時代 - 遊牧時代 - 農業時代 - 農工時代 - 産業革命を経て、重商主義時代から現代に至るまでの歴史の中で、古代に起こった一出来事と解説できるでしょう。そして、今のような現代文明の祖となった者こそ、カインといえます。
しかしながら、聖書の記事は、霊的に考察しなければ無意味です。
神の忠告
3節に「日がたって、カインは地の産物を持ってきて、主に供え物とした」とあります。その時、カインのほうは神に顧みられなかったので、大いに憤って、「俺が一生懸命、汗して働いて得た献げ物を顧みたまわないのか。神など拝んでやるものか」と思って、顔を地に伏せました。
そこで主は、「なぜおまえは憤るのか。罪が門口に待ち伏せている。それを治めなければならないぞ」と言われた。日本では、「男子、門を出ずれば七人の敵あり」と言うけれども、罪に打ち勝ってゆかなければならない、と言われました。
主は言われた、「あなたは何をしたのか。あなたの弟の血の声が土の中からわたしに叫んでいる。今あなたはのろわれてこの土地を離れなければならない。この土地が口をあけて、あなたの手から弟の血を受けたからだ。あなたが土地を耕しても、土地は、もはやあなたのために実を結ばない。あなたは地上の放浪者となるであろう」
アベルが殺された後に、主はカインに対し、「弟アベルはどこにいるか」と尋ねられました。その時カインは、「知りません。私が弟の番人でしょうか」と言って、はばかりません。自分で殺しておきながら、しらを切って平気です。ところが、アベル殺害のことを突きつけられると、「私の罰は重くて、とても負いきれません。今日、私はここから追放され、あなたを離れて、地上の放浪者とならねばなりません。私を見つける人は誰でも私を殺すでしょう」と言って恐れます。しかし主は、「いや、誰でもおまえを殺す者は7倍の復讐を受けるだろう」と言われて、カインを打ち殺すことのないように、彼に一つのしるしを付けられました。
そして、カインは主の前を去って世界を流浪し、エデンの園の東に住みました。そこで神無き人間中心の文明を築き、罪の不安に怯えなければ生きられない生活を送った、という物語です。
2つの人類のタイプ
カインもアベルも、同じアダムとエバの子供です。カインは自分中心でして、自己満足できなければ、神に対して怒り、顔を伏せて陰謀を企みました。これに反して、アべルは神に喜ばれたいとの心をもっていました。ここに、2つの人類のタイプが見られます。
アベルとは、「牧畜」とか「気息、はかない」という意味の語です。アベルは、はかない薄命の生涯でしたが、神の目には尊く見え、神に喜ばれる心の持ち主でした。
何ゆえに、神に喜ばれたのか? アベルは大事に育ててきた羊の初子と、肥えた羊を献げました。このことが新約聖書では、「信仰によって、アべルはカインよりも勝った犠牲を神に献げ、義と認められた。彼は死んだが、信仰によって今もなお語る」と記されています(へブル書11章4節)。カインよりも勝った供え物とは、アベルが献げた犠牲の小羊のことです。
小羊は祭壇で屠られて、血を流します。血は生命の代名詞です。「人間は罪深いものであって、血が注がれなければ人間の罪は赦されない」というのが、聖書の贖罪観の根本です。神の小羊の血の注ぎこそ、贖いの第一義です。
すなわち人間は、新しい神の生命が、聖なる霊が注がれなければ罪のままであり、空しく、はかない、一息で消えゆく弱い存在です。とても栄光の神の御前にそのままでは立ちえないのです。それでアベルの供え物は、祭壇の小羊のように、罪の自己に死にきりたいという願望とともに、神の生命である血の注ぎを受けて新生したいという渇望、この両面の表現なのです。
それに比べ、カインは大地を耕し、営々と汗して働いた労働の結晶を、「これは、私が丹誠込めて作った作物です。立派な出来栄えでしょう。さあ、差し上げます」と献げました。彼は、神の前に何も悪いことをしたわけではありません。また、農作物が悪いわけではありません。しかし、神は見るのも不快だといって喜ばれませんでした。人間の手で丹誠込めて作った作物かもしれませんが、そこにカインの人間的な誇りが見えます。ここに、カイン的文明の本質があります。
言葉は同じ宗教、同じ礼拝であっても、アベルが神に喜ばれる人間でありたいとの、神本位の礼拝であるのに比べ、カインは人間中心の文化的宗教を旨としたのです。神が喜ばれるか喜ばれないか、カインにはどうでもよかったのです。まず自己中心のエゴイズムから、神に対する不平を抱き、自己の欲望のためには、弟を殺しても自らを省みない冷酷な心情が、彼の心に巣くったのでした。まさにテロリストたちの心がそうです。
罪の意識が欠如
今、アラブ・ゲリラの手先となった狂気の青年、岡本公三の取り調べが行なわれています。
「なぜ、こんなに罪なき人々を殺傷したのか」という質問に、「無差別殺傷は、アラブのPFLP(パレスチナ解放人民戦線)の命令だ。世界同時革命を起こすためだ」と言って、何ら人間としての罪の意識も、悔悛(かいしゅん)もありません。
「だがアラブの問題に、第三国人である日本人が介入しなくてもいいではないか」と問うと、「自分は日本人じゃない。小さな民族主義者ではなく、世界主義者(コスモポリタン)だ」と気取って、革命の幻想に取りつかれてしまっている、と新聞は報じています。これこそ、20世紀の「カインの神話」ではないでしょうか。
最も多くの犠牲者を出したのは、信心深いプエルトリコの巡礼者でした。彼らは貧しくとも神の愛(め)でたもう現代のアベルでした。こんな罪の無い巡礼者や出迎えの市民、婦人や子供に向かって、アラブの指令どおり、めちゃくちゃに撃ちまくって殺傷したのです。しかもこの残虐な行動をアラブ諸国が英雄行動として称賛するとは、あきれて物が言えません。この罪は大きい!
左翼思想の蔓延
NHKの放送を見ていても、とんでもないことを言っている。NHKは国民の公的機関だから、事件について世界に対しても国内に向かっても、悪かったということを表明し、懺悔番組でもするかと思っていました。ところが、「〇〇さん、永らくお待たせしました。どうぞ、アラブ・ゲリラの話をしてください」と、アラブ贔屓の話をさせる。何ら日本人としての反省がない。
だから私はすぐ放送局に、「今の特別番組は何です! 一方的な放送で、手落ちじゃないか」と、抗議の電話をしました。しかし、「いや、私たちは事件の背景を解明しているんです」と言って、手落ちを認めない。悪の奥の、さらに奥を見せる番組ばかりが行なわれている。そこから何の善きものが出てきますか! 光など出てきません。おかしな世の中です。
日本の青年がこんな事件を起こして、今後、「日本には平和憲法があります。平和が大事だ」と言っても通用しませんよ。しかも「反戦、反戦、平和、平和」と言っている連中が、いちばん暴力を振るう。平和主義を掲げて左翼的言動をする者が、こんな酷いことをする。また、今のインテリ、文字や言葉だけで生きている観念論者は、偽りの内容を見る目や洞察力がないから、「反戦、平和」というスローガンに参ってしまう。
左翼思想に染まった日教組の先生たちが行なう戦後教育によって、どういう恐ろしいことになるか、明らかです。私が20年前から言い続けてきたことです。「今後、日本を滅ぼすものは日教組である」と。
労働組合や組合運動は、必ずしも悪くない。だが、彼らの唯物論的な思想が、教育界や労働界、あらゆる方面に蔓延し、長く培われてきた日本の尊い精神を引き裂いています。神無き知識、神を畏れぬ知識というものは、災いとなります。
愛国心の喪失
なぜこのようなことになるのかというと、一つに愛国心が無くなったからです。本当の民主主義を知らず、曲解した先生たちが、「愛国心など教育してはいけない」と言って、日本人として生きる誇りを子供たちに教えないからです。
他の民主主義の国々においては、国民が自分の民族を誇りに思い、国を愛することにおいて決して人に後れを取るまいと思っています。あれだけの雑多な人種から成るアメリカでも、そうです。星条旗の前にみんな等しく頭を垂れ、敬意を表します。
私たちがこうして日の丸を掲げて集会すると、「なぜ幕屋はおかしなことをするんだ」と、クリスチャンが批判します。しかし、アメリカの教会にでも行ってごらんなさい。星条旗が、ちゃんと掲げてあります。彼らは、自分を育ててくれた国、保護してくれる国というもののありがたさを知っています。そうでなかったら、自分から志願して戦争に出てゆきません。自分以上の国家があり、それが保護してくれるから、お互いこうして平和に生きておれるのではないですか。
随分、今の日本は間違っています。私は日本という国が好きなんです! しかし道義が廃れて、何が誇りになるでしょうか。経済大国が何の誇りになるでしょう。日本が滅びる日はもう遠くない、と私は言っておきます。なぜなら、それは聖書を読んだらよくわかります。聖書は国々の興亡の歴史を綴っている書だからです。歴史は繰り返します。よほどここで日本人は自戒し自粛しなければ、もうだめです。今の文明は、次の時代を担うはずの青少年の心を蝕むだけです。
岡本が言うように「世界主義者(コスモポリタン)」とは聞こえはいいですが、愛国心を失ってカインのように世界を流浪し新しい世界を築いても、幸福でしょうか。赤い過激派のような国籍喪失者や無政府主義者が現代のインテリどもに多い現象は、カインの末裔がはびこっていることを物語っています。
憤怒と憎悪を抱くと
もう一つ、悪の衝動という根本的な原因があります。神はカインに、「なぜ憤怒するのか。正しければ、どうして顔を伏せるのか。もし反省しなければ、罪の虜となるぞ」(6~7節)と前もって諭しておられます。しかし、罪に魅入られたカインは、良心が麻痺して、もう自分の力で憤怒を、悪の衝動を抑えることができませんでした。8節に「彼らが野にいたとき」とありますように、カインの中に衝動的にアベルへの敵意が起こって殺害したのでして、理性的な思慮があったわけではありません。
日本人の傭(やと)われテロリストも、一方的にアラブのアジテーター(煽動者)に踊らされたようで、彼らはイスラエルの歴史について深い認識をもっていたわけでありません。日本のマスコミの評論家たちでも、イスラエルとアラブの問題について、至って浅薄な知識しかもっていません。もしイスラエルの聖なる歴史を知ったら、とてもあんな残虐なことをやれたものではありません。
ここに、暴発してゆく過激派の起爆剤、「憤怒」があります。憤怒と憎悪を人々に植えつければ、若者の心理は容易に爆発します。
御霊によって新生
以上のことは、この2月に過激派の連合赤軍が「あさま山荘事件」を起こしましたが、それまでに行なった彼らの総括殺人に見られるとおりです。同じ革命を誓い合った同志ですら、互いに信じ合えずに疑い、裏切りを恐れ、「組織防衛」と称して12名もの同志をリンチにかけて殺しました。友人に対しても、愛より憎悪の念を燃やし、敵意と復讐心に駆り立てられねば、彼らの言う革命の衝動力が得られないのです。突き上げてくる奇怪なリビドー(欲望)を抑えきれず、罪に罪を重ねてゆきました。
カインのように神の聖なる臨在を感じない以上、自暴自棄になった現代青年は、やりたい放題でして、心の歯止めがききません。「肉によって生まれた者は肉である。霊によって生まれた者は霊である。霊によって新生しなければ、神の国に入れない」(ヨハネ伝3章)と、イエス・キリストは言われました。罪の力に対して、肉のままでは、自らを治め、悪の衝動に打ち勝つことができないのです。神の御霊の注ぎを受けなければ、勝利できません。
イデオロギーという宗教
赤軍派同様、口々に「世界革命」を唱えながら、ひとかけらの人類愛も無いのが、アラブ・ゲリラの正体です。また、これを「カミカゼ特攻隊」と言って称賛したりする評論家がいます。そんな評論家を、新聞や雑誌にまで登場させるとは、日本のマスコミ界もゲリラたちと同罪ではないでしょうか! こんなに日本人のモラルが混迷してしまったのは、神無き文明の結果です。
生きた神と霊的に交わる喜ばしい経験は、今はもうキリスト教会にすら失われております。こんな現代に、宗教があるといっても、それは代用宗教でして、何かのイデオロギーの信奉となっています。総じて革命家と称する人々は、共産主義者であれ、ファシストであれ、極端な二元論に立って物事を判断しています。
彼らは世界を見るのに、「善と悪、光と闇」というように、二分してしか考えられません。自分の理想以外は、光の世界までも、すべて悪の権力がはびこる闇の世界に見えてくる。そして、それを打破するには手段を選ばず、殺人まで犯すことになります。
しかし、たとえ彼らが新しい時代を迎えるとしても、そこに人間らしい、愛情のこもった、自由な社会が生まれるとは考えられません。暗闇からは暗闇しか生まれてきません。真の光を体験したことのない者が、どうして光の国を招来することができるでしょうか? 光を見た者だけが、光を指し示すことができます。暗黒界を照破する真の光こそ、キリストです。
愛は多くの罪を掩(おお)う
ところで神は、戦々兢々として恐怖心に怯えるカインの姿を見て、何と言われたでしょうか。「カインを殺す者は、七倍の復讐を受けるぞ」(15節)と言って、カインの罪を追及せず寛大に赦された、とあります。「愛は多くの罪を掩う」といいますが、これが、神が罪重きカインになさったことでありました。そして、彼が悔い改めて神に立ち帰ることを期待されました。しかし、悔いて神に帰るよりも、神から逃げ出したのがカインでした。
今回の凶悪犯人に対し、イスラエルのゴルダ・メイア首相が、「日本人を咎(とが)めません。日本人は自責の念に苦しまなくてもよい」と言われるのを聞いて、さすがに聖書の精神を知る民の言葉だと思いました。この言葉を、日本人は永遠に肝に銘じて忘れてはならないと思います。
神無き文明の結論
神は、御前を去ったカインを赦し、その文明の栄えるに任せられましたが、幾多の文明の衰亡の歴史は、大事なことを物語っています。神無き文明というものは、どんなに外側が文化的に栄え、便利になっても、人間の真の幸福を作り出してはくれませんでした。
戦後の日本は高度の経済成長を続け、世界一流の経済国となり、二十数年にしてアメリカやドイツに劣らぬ国とはなりました。今年末には対外資産が、150億ドルになるだろうといいます。しかし、こんな使い道のないドルを貯め込んで、どうするんですか。しかも工業発展はよいが、そのことによる公害のひどさには目を覆わしめるものがあります。さらに、PCB汚染による奇病が続々と発生している日本列島。人間ばかりか、魚類や鳥類や昆虫も影響を受けています。
さらに恐ろしいのが、精神的公害です。すっかり愛国心を失って、アラブ・ゲリラのお先棒を担ぐテロ青年を生むとは。ここに神無き人本主義文明の結論があります。物質的繁栄の陰に、相次いで起こるテロ、グロ、エロの犯罪事件は、何を物語っているでしょうか。このまま無自覚に暴走したら、やがて日本国は近い将来に滅亡してしまうでしょう。
大和民族よ、早く目覚めて、神に帰れよ! それにつけても、いよいよ私たちは霊的アべル族として、新しい文明の興隆を期し、奮起する必要があります。
日本よ、永遠なれ!
イエス・キリストは、「わたしが来たのは、羊に生命を得させ、溢れるばかりの豊かな生命を与えるためである」(ヨハネ伝10章)と言われました。私たちは、そういう溢れるような生命を知っているでしょうか。なぜアベルは、祭壇に羊を献げて神に近寄ってきたのか。「現在、人間として持っているような肉の命では堪りません。私の命なんか、死に等しいものです。貴神が持ちたもう溢れるばかりの霊的な生命、豊かなる完全な生命を、どうか、私にお与えください」と言って額(ぬかず)いたのでした。
私たちに必要なのは、枯れ細った、公害に蝕まれているような生命ではありません。どうぞ、キリストが言われる天来の豊かな生命を与えてください、と祈ろうではありませんか。
十字架の御血潮が、神の子イエス・キリストに宿ったあの驚くべき生命が、私たちに分かち与えられる時にのみ、本当の救いがあります。人間(アダム)の肉性を乗り越えて、私たちの信仰が、原始福音運動が霊的に純化され、全国に燃え上がって伝わらなければ、日本国の救いは絶望だと思わしめられます。私は、日本よ、永遠なれ!と祈ること切です。
(1972年)