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山崎  英雄

 今年(2015年)は、日本が大東亜戦争に敗れてから、70年の節目の年に当たります。

 終戦時に旧満州、樺太、千島にいた日本軍人、民間人の概数は272万人といわれますが、侵攻してきたソ連軍によって、略奪、暴行、陵辱をほしいままにされたあげく、本来その土地の財産である目ぼしい施設、資材、機械、大量の備蓄食糧などは、戦利品としてあらかたソ連に運び去られました。

 終戦直後、武装解除した日本将兵に、ソ連兵は口々に「大連、釜山の港は空爆で使えない。君らはウラジオストークから、日本に帰るのだ」とか、「日本は極端な物資不足だから、できるだけたくさんの品物をわが家に持ち帰れ」などと言うので、お人よしの日本人はすぐにでも帰れるものと信じ、連行途中の脱出はほとんどありません。携行荷物は着地で没収されました。

 こうしてシベリアに連行された日本軍労働大隊は、約60万人。そして、幾年にもわたる過酷な労働、劣悪な生活による死者は、6万人を数えました。

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伐採作業から収容所への帰り道(画:柴谷吉宣氏)

*故柴谷吉宣氏は筆者と同じ収容所で抑留生活を体験する。『生命の光』誌の読者であった。

 なお、ソ連に連行された直後、役に立たないと見られた病弱者の約4万7000人は、すぐに旧満州、北朝鮮に送り返されましたが、その逆送途中での死亡者も少なくなかったといわれます。

 私はこの大戦に一兵卒として、ソ連と満州の国境、ハイラルの国境守備隊に配置されていました。任務上、国境陣地の守りについていましたが、終戦まで、わが守備隊は一度もソ連領に踏み込んだことはありませんでした。守備についた私も、ただの一度も国境に向けての射撃を命令されたことはありません。

 それなのに、強制連行されたシベリアでは一律に、「ソ連に敵対した者」として、毎日重労働に狩り出されました。ごく短い者でも2年、中には11年もの間、捕囚拘禁された人々もいます。私の場合は4年3カ月でした。

 私が最初に従事したのは、チタ州シャフタマという山奥の収容所から1キロほど離れたモリブデン鉱山での、鉱石の採掘、運搬の苛酷な労働でした。そこで私は幾度も死に繋がるような危うい目に遭いましたが、そのつど不思議に災厄を免れました。

(2015年 札幌市在住)