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内野 正義

 昭和20年(1945年)3月10日の東京大空襲の時、私は東京に住んでおりました。それと申しますのは、私の父が故郷の熊本県天草から東京に出てきまして、「東京屋」という屋号で商いをしていたからです。それで私たち子供はみんな東京で生まれました。

 私が小学校1年生の時、アメリカ軍のB29による東京大空襲に遭いました。私たちが住んでいたのは浅草で、隅田公園のすぐそばでした。深夜、空襲が始まった時、いち早くその公園に家族ともども逃げ込みました。

 父は隣組長をしていましたので、他の人たちを助けるために早く家を出てゆきました。その時の空襲は、焼夷弾によって木造の建物はいっせいに火を噴いて燃え上がるという状態で、風にあおられて火の粉が激しく舞い散り、まさに火の地獄でした。私たちは、すさまじい高温の中で、ただひれ伏して舞い散る火の粉に耐えていたわけです。

 隅田川を挟んで対岸は向島で、浅草から向島方面へ逃げる人たちと、向島から浅草方面へ逃げる人たちとが、言問橋(ことといばし)という橋の上でぶつかり合って、どっちにも逃げられない。そのうちに持ち物や着物に火がついて、しかたなく隅田川に飛び込むほかなかったのです。しかし川面も焼夷弾の油で火の海となっており、そのうえ3月なので川の水は冷たく、焼け死んだり溺れ死んだり、悲惨な死に方をしてゆきました。

大空襲

焦土と化した東京(現在の墨田区両国、右上は隅田川)

 隅田公園にも入り切れない人たちがいっぱいいて、私は母と兄弟5人で逃げたのですが、いつの間にか母たちと離れ離れになり、気がついたら、女学生くらいの人を連れた、よそのおばさんの傍らにおりました。

 寒い時期ですから私は毛糸のセーターを着ておりまして、それに炎と火の粉がふりかかって、燃え移りました。母はいないし、「おばさん、熱いよ、熱いよ!」 と泣き叫んだら、そのおばさんが親切に、一晩じゅう火の粉をふりはらって消してくれたんです。

 何時間もそういう状態で耐えて、あくる日、夜が明けたら、すぐ周りには黒こげになって焼け死んだ人たちが、ごろごろ横たわっていました。私は、どこのおばさんか知りませんけれど、その人のおかげで一命をとりとめました。この日の空襲で、10万人以上の方が犠牲になったといいます。

(2016年 長崎市在住)