土田 津恵子

 戦前の樺太(サハリン)には、40万人もの日本人が住んでいました。石炭や製紙などの産業が盛んで、近海の豊かな漁場には内地からたくさんの出稼ぎの人たちがやって来て、大変なにぎわいだったとのことです。

 しかし昭和20年(1945年)8月、ソ連軍が侵攻し、国境の方では戦闘になって、人々は続々と内地への引き揚げを開始しました。8月15日を過ぎても、なおソ連軍は攻撃を止めませんでした。

 そして同月20日、朝霧が晴れた西海岸南部の真岡(まおか)の港に突如、ソ連の軍艦が現れ、真岡の惨事が始まったのです。艦砲射撃にさらされ、上陸部隊の激しい銃撃に、逃げまどうたくさんの方々が亡くなりました。

 この時、爆音や銃声が近づいてくる真岡郵便局の2階の電話交換所には、交換手の乙女たちが留まって、必死に通信を守りつづけていたのです。その一人が、札幌幕屋の土田津恵子さんの叔母、当時18歳の澤田キミさんでした。

 その頃の電話交換は女子職員による手動式で、戦時下の国防の緊急連絡にとって、最重要な使命でした。ですから彼女たちは、いかなる戦況になっても最後まで職務を果たそうと決意して、お互い申し合わせていたのです。

 そしてついに、「交換台に弾丸が飛んできた! もうどうにもなりません。皆さん、これが最後です。さようなら、さようなら」という言葉を残し、キミさんを含む9人の乙女が、敵軍から辱めを受けることがないように青酸カリを飲んで自決されました。

(編集部)

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 昨年(2013年)の8月、私は初めて樺太に行ってまいりました。兄嫁と二人で、樺太慰霊団の方たちのグループに入れていただいたのです。

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 稚内港から乗船してしばらくした時、「洋上慰霊祭をします」という連絡で、かなり揺れている船の甲板にやっとのことで出てゆきました。

 僧侶の方が海に向かって祈祷してくださいました。樺太から引き揚げる時、小舟に乗った人も、大きな船に乗った人も、この海でソ連軍の艦砲射撃を受けて、泣きながら船と共に沈んでいったということです。

 5時間半ほどでコルサコフ(旧・大泊)港に到着しました。それからバスに乗り1時間ほどで、白樺やナナカマドの並木道が美しいユジノサハリンスク(旧・豊原)に着き、レーニン広場などを観ました。

 今ではすっかりロシア風の街になっていますが、戦前に樺太庁博物館として建造された建物が、現在もそのまま博物館として使われていました。

 和風の堂々とした建築物で、その庭には明治時代の日本製の大砲が置かれています。当時の日本人の気概が感じられてなりませんでした。

(2014年 札幌市在住)