手島 郁郎

 ああ、吉井君は逝きました。私たちの愛してやまない吉井純男君は逝きました。涙、河のごとくに流る。涙が河のごと流れて、止めどありません。私は人の死に際会してこんなに泣いたことはありません。4日未明(1955年2月)、4時過ぎ独り端座して祈っていたら、「手島さん、電報!」と、夜の沈黙(しじま)を破って聞こえてきました。

 「4ヒ1ジ ヨシイセンセイ テンニガイセンス スグオイデコウ」ウシオ

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吉井純男さんの面影

 ああ、吉井君は死んだのか。私はすぐ、取るものも取りあえず、急行「筑紫(つくし)」にかけ込みました。列車が山陽線に入って、瀬戸内海が、中国山脈が見えだすや、私は感情を抑えきれなくなって、わあっと声を上げて号泣しました。どうにも車中におれなくなり、ずっとデッキに出て、「吉井君、なぜ死んだ!」と言って悲しみました。私は3人、自分の子供を死なせたけれど、私はこんなには泣きませんでした。それほど、吉井君に深く、期待と信頼をかけていました。

 真実で純情な吉井君。純一無雑、水晶のような透明な魂の吉井君。ああ、愛する君ともう一緒に、この山陽線を旅行することもできぬのかと思えば、ああ、君とこの美しい瀬戸内海の風景も、共に眺めることもないのかと思うと、悲しくて悲しくて、泣けてなりません。

 いずれの日にか、私は吉井君を大きく全日本に紹介し、「日本にかくのごとき聖所の柱あり、神の人あり!」と、彼を顕揚(けんよう)し、共にキリストの戦(いくさ)を戦いたかったのに。思うと、悲しくて悲しくて、はらわたがちぎれそうです。私は、吉井君の死を悼(いた)むのではない。吉井君の人物を惜しむのです。大きい損失です、日本のために。もう彼はすっかり、真に、信仰の完成期に入っていました。実に、神々しいまでにキリストの義と愛とを身に薫(かお)らせていたのに。もう、どこに出しても「キリストの使徒」と称して恥ずかしくない人格の輝きを示すに至っていたのに。この2年間、私がただ賞賛し、たのみにしていた弟子であったのに。

 ああ、この吉井君を失って、私は胸がうずいてうずいてなりません。キリスト教界の誰が、私の伝道を何と非難しようと、私の信仰を何と中傷しようと、あえていつも黙って私は抗弁しませんでした。それというのも神の国は論議の上になく、事実の上にあるからです。事実が証明する。

 「吉井君は、私の書(ふみ)である。私を通して記録されたキリストの書である。吉井純男を見てさえくれたら、すべてがわかる。私の伝道によって書かれた吉井君は、明らかにキリストの書でした。墨にあらで活ける神の御霊にて録(しる)され、石碑でなく、心の肉碑に録された、すばらしいキリストの書ではないか!」(コリント後書3章)と、私もパウロのように、一人の吉井君を示して、何人(なんぴと)にも、威張って言うことができたのです。私は、儀文や研究の上にロゴスを書きつけたりせぬ。生きたキリストの書を、一個の人間にえぐりつけるのが、私の伝道なんです。しかるに、この大事な生きた証拠が、取り去られたのです。私の悲嘆をお察しください(もちろん、ひしめくようにわが幕屋には、今や吉井君を乗り越えて前進しゆく魂が群がっているから、私は落胆せず、大いに喜んではいるものの、しかし、やはりつらくて仕方がありません)。

(1955年)