手島 郁郎

義人ヨセフは苦悩の中に
天の黙示を受けた
(グイド・レーニ画)

 私のベッドのそばにはイエス・キリストの父ヨセフの肖像画が飾られてあります。人間として、人の子の父として、ヨセフのようでありたい。これはかねてから私の願いであり、祈りでありました。

 そこで、ヨセフは立って、夜の間に幼な子とその母とを連れてエジプトへ行った。
(マタイ伝2章14節)

 ヨセフはほんとうに従順な魂の持ち主でした。「幼な子イエスを連れて、エジプトヘ逃れよ」と天使の御告げがあるや、はるばる遠くエジプトまで出かけて行き、マリヤの生んだ私生児のためにでも、異国の地で苦労することをあえてしたのが、ヨセフでありました(マタイ伝2章)。実に神様は、このような従順な魂を捕らえて、いとも尊いものをおあずけになります。

妻子を気遣いながら
荒野の道をエジプトへ向かう
(バルトロメ・エステバン・ムリーリョ画)

義には強く、愛には弱く

 夫ヨセフは正しい人であった。けれども、彼女のことが公になることを好まず、ひそかに離縁しようとした。
(マタイ伝1章19節)

 ここに、夫ヨセフの性格がよく表れています。

 婚約中の女が、自分の知らぬ間に身重になった。モーセの律法によれば、そんな場合は、女を石打ちにして殺してもよい。しかも、個人主義の国ならともかく、イスラエル、アラブ地方は、みな部落単位で生活し、何か問題でも起きると、部落全体で処理することになっていた。正しい人であればあるほど、公の場に事件を持ち出して、解決すべきでありました。

 しかし、ヨセフは、マリヤを石打ちの場に出すことをしなかった! 否、できなかった! 彼の温かい、もろい愛の魂が、そうさせなかった。夫ヨセフは、正義のためには、敢然として、どこまでも不義を憎んで戦う強い魂だった。しかし、それ以上に、愛には実にもろく、弱い人であった。このヨセフの生き抜いた姿こそ、若いころからの私のモットーでありました。

 「不倫の許嫁(いいなずけ)のことが人に知れたら、民衆裁判で石打ちの罪になる。このままそーっと自分たちの婚約関係を否定しておけば、あるいは過ぎ越すことができるかもしれない」。あれこれと、思いめぐらしては、ヨセフは煩悶していました。世の中の矛盾に悩んでおりました。不義は憎々しい。しかし、それさえも、どこまでも愛で覆い尽くすことができたのが、ヨセフであります。何という真の徹底した愛の姿ではないですか。

 正義感の強い人ほど、自分の周囲にも潔癖を要求するものです。しかし、そのために殺されるのは愛です。私は、真理だけのために生きる人にはなりたいと思わない。真理というものは、愛で彩られた時に初めてほんとうに尊い。信仰に精いっぱいになるがために、真理に忠(ちゅう)ならんとして愛が殺されてしまうのなら、そんな信仰は堪らない、つまらないものです。

 義には強く、愛にはもろい姿! これこそ私たち幕屋人の姿でなければなりません。

大工仕事に汗しながら
御旨をうかがったヨセフ

天使の声を聴く者

 それにもまして、私がヨセフにあやかりたいのは、超自然的な力をもつ聖霊を最も重んじ、聖霊に対する直感力をもってその声に聴き従っておったことです。

 自分の許嫁に忌まわしい現象があっても、外側ばかり見ずに、なお、神に聴いてこの問題は解決しようとした。平面的な世界では問題は解決しない。より高い声を聴いて進んでいるうちに、やがて問題が解けてしまう。これが、ヨセフの知っていた信仰でありました。

 私もヨセフのごとくに、霊界からの呼び声をビリビリ聴き、これを地上に取り次ぐ人間でありたい。そしてこれに感化される人たちが続々と現れることです。皆さんの感化によって次々と伝道が行なわれる。そのために私はもっと高い立場で、高い声を聴いてゆこう。

 霊界に住んでいる人たちの群落の中に入って、天翔っていったすぐれた兄弟姉妹の霊魂、また天使たちと交わりつつ学んで、彼らに似た天的な輝きと、天的な愛(地上の愛欲の愛とは違う天使たちのもっている愛)、天使たちがもっておる素晴らしい力と知恵に満たされたい。天に昇っては、神に御栄えを帰してほめ賛えている天使たち、降(くだ)っては地獄のどん底にも下りてきて救う——そのような広い行動半径の者たちの中で、すべてのことを直に学び、多くの人を導いてゆきたい。

 ヨセフのごとくに、神秘な世界の高嶺(たかね)に登ろう。天使たちの考えている考えを、いつも身に体しておらなければ、人様を導くなんてできるわけがないからです。いよいよ、私は人を見たり、自分を見つめたりせずに、ぐんぐん登ってゆきたい。

(1961年12月29日)