戴 欽明(たい きんめい)さん
聞き手:長原 眞

 台湾の花蓮(かれん)市に数名の『生命の光』の読者がおられます。そして王阿海(おう あかい)さんを中心にして幕屋の集会が開かれています。集う人たちは、日本が台湾を統治していた時代に生まれ、日本語の教育を受けたかたがたです。その中のお一人にお話を伺いました。

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長原眞 戴さんは、日本統治時代のお生まれですか。

戴欽明 そうです。昭和4年(1929年)に台湾の花蓮で生まれました。終戦の間際に、軍隊に志願兵として入隊しました。台湾から出征した高砂義勇軍(たかさごぎゆうぐん)の多くは、南方で戦死しました。

 私は少年兵でしたので、戦場には行かず、高雄(たかお)の近郊にある陸軍の飛行機の工場で働くようになりました。そこには、隼(はやぶさ)や海軍の零戦(ゼロせん)といった日本軍の戦闘機が40~50機配備されていましたね。

 ところが戦局が悪化してきました。ある朝の4時半ごろ、辺りがかすかに見えるようになったとき、アメリカのグラマン戦闘機や大型爆撃機が500機ほど、真っ黒に空を埋め尽くすくらいの編隊で飛んできました。空襲警報も間に合わず、高射砲台も飛行機の工場も爆撃によって破壊され、滑走路は穴だらけになるし、至るところ、逃げ遅れた人の遺体でいっぱいでした。

 それからというもの、台湾沖の海上に停泊した米軍の第58機動部隊の空母から、毎日のように爆撃機が飛んできて波状攻撃をしてくるんです。低空飛行で機銃掃射するわけです。走って必死で逃げたのですが、よく命が助かったものだと思います。

長原 戦後、日本の統治から国民党の支配に変わって、言葉の面でも苦労されたのでしょう。

 学校では日本語しか習っていませんから、北京語が話せません。それに、戦後の混乱期ですから仕事がありません。何とか自動車の免許を取って、郵便局に勤めるようになりました。その後、バス会社に入って路線バスや観光バスを運転しました。

 上司が厳しい人で、今までバスが行ったことのない道を走らせるんです。「阿里山(ありさん)に道路ができたから、観光客を乗せてそこへ行ってくれ」と言われた。

 新しく道路ができたといっても、台湾の山は急斜面ですし、道は狭く曲がりくねっています。一歩運転を間違えると、断崖絶壁ですから命がありません。

 それに高い山ですから、霧が深くて前が見えないときの運転、ひやひやしながら、手に冷や汗をいっぱいかいていました。でも仕える身ですから、どんなひどい仕事を命じられても嫌とは言えません。

(2017年)