(前)世界連邦日本宗教委員会秘書長
(元)栂尾高山寺執事長
中田 千朗
取材:神藤 燿

 毎月『生命の光』をたのしく読ませていただいています。

 手島先生の文章は燃えていますね。やはり宗教は、生命に火がつかなければ、実生活の中に役立ってきません。学者の説明で、頭が少し明るくなった程度では、どうにもなりませんね。

 不幸にも、私は手島先生にお目にかかるチャンスがなかったのですけれど、テープを聞かせていただいてびっくりしたことは、しゃべり方まで、朝比奈宗源(あさひなそうげん)老師の熱を帯びた語り口というか、勢いというか、老師と全く一緒なんです。物のとらえ方が学者と違うんです。一つの物を見ても、とらえ方の角度が違うから、我々がエッと思うような独特の読み方をされています。

 私は朝比奈宗源禅師と葉上照澄阿闍梨(はがみしょうちょうあじゃり)という二人の素晴らしい師匠に仕えました。老師からは“静中の動”を、阿闍梨からは“動中の静”を教わりました。手島先生のものを読んだときに、「アラッ、同じだ。お会いしたかったな」と思いましたね。それも、手島先生はクリスチャン、私は仏教者、その違いを超えて共鳴するものがあるから、なおのこと私の心を打ったんです。

 ずいぶん私は手島先生の本で助けられることが多いんです。先生の出版された著書全巻を聖書塾から送っていただいて、ちょっと挫折感を感じている時とか、土、日に空いた時間があるときなど、読み直しているんです。先生のものを読みますと燃やされてきます。今、『マタイ伝講話』を読んでいます。

 宗教は慈悲とか愛とかいうけど、冷たい愛なんてないですからね。燃えている生命でなければ、愛といえません。その燃えるということがどうすればできるのか、ですよ。それも、ただ燃えたらいいんじゃなくて、手島先生はきちんとした論理学を用いて、合理主義に基づいた説き方をしておられる。なんでこんなに語学が達者なんだろう、なんでこんなに学問ができている人なんだろう、と感心します。

 もう一つ、なぜ幕屋のグループに力があると感じるかと言いますと、あなたがたがオリジナル・ジーザス(原始イエス)に帰ろうとしているからです。私もかねてから、仏教もオリジナル・ブッダ(仏陀)に帰るべきだと考えてきました。

 実は私は大学時代に、鎌倉の円覚寺の朝比奈老師の所に参りまして、座禅しながら学校に通っていました。ある日、老師が、「お前、座禅するのはよいが、一度、友松上人のところに行って教わってこい」と言われたんです。

 浄土宗の神田寺に、友松圓諦(ともまつえんたい)上人という偉い方がおられて、「釈尊(しゃくそん)に帰れ」という運動をしておられた。そこに3年間通って、仏教のオリジナルを教えられました。何々宗というセクト仏教をいう前に、本来の釈尊仏教に帰るべきだと教えられました。目から鱗(うろこ)が落ちた気がしました。やっと本当の仏教がわかったという思いでした。

 そういう体験が私にあったから、幕屋の方にお会いしたときに、「アラッ、これは私が求めているのと同じだ」と思ったんです。私は、そのオリジナルに帰ることと、燃えることしか知らないんです。オリジナルに火をつけなければいかんと思います。せっかく宗教の世界にいるんですから、やはり、オリジナルに帰れ、オリジナルを大切にしよう、と言ってきました。キリスト教も、イエス・キリストの原点にもう一度帰らなければ、亜流を泳いでいたって本物ではないですよ。

 われわれは普通、「信じる、ビリーブ」と言うでしょ。それを手島先生は「ビリーブ・イン ~の中に信じる」と言われる。「イエスはこう言った、私はこれこれを信じます」って、単なるビリーブじゃあ駄目です。ビリーブ・インでなくては、パウロのように、イエスをわが内にあるものとして、「イエス・キリストに帰れ!」ですよ。

 手島先生は尊敬すべき宗教家です。もう半世紀生きていてくださったならば、もっといろんな宗教者にお会いしていただけたと思います。先生の『日本民族と原始福音』という本を読んだとき、先生に「日本を守る会」にも来ていただいて、お話ししていただきたかったと思いました。そうしたら神社人も仏教者も目が覚めたと思うんです。だから「幕屋の皆さんに期待していますよ」と私は申し上げているんです。もし幕屋のシンパサイザー(共鳴者)のような集まりがありましたら、ぜひ私もお仲間に入れていただきたいと思っています。

(2016年)