内藤 大吾

 5年前(2013年)に日本に来た時、私の心はボロボロでした。医者になるため、故郷のカナダで一心不乱に医学大学院を目指していましたが、4度目の不合格となり、これからどこを向けばいいのか、わからなくなりました。

 その心の悶えを信仰の先輩に相談したら、「日本に信仰を学びに来ないか」と誘ってくださいました。夢を絶たれた私には、どのような道でも存在理由を与えられたようで、心機一転を願って太平洋を渡りました。

 それまで夢を語り合ったカナダの友人たちには、自分の惨めさのため、心境や行き先もろくに伝えず、関係を断つつもりで、生まれ育った国を離れました。

 着いた先は、東京のキリスト聖書塾。キリストに仕える志を抱いた若者が、切磋琢磨しながら祈り、また働く場でした。私も日々の課題に一生懸命に当たりました。振り返りたくない過去に埃(ほこり)が積もり、いつかその悔しさが埋もれて消えてしまうことを願いました。

乾ききった心の呻き

 しかし、過去への未練は消えていくどころか、心を圧迫しだしました。周囲にもその葛藤を打ち明けられず、とうとう魂の喜びを感じられなくなりました。

 ある時、耐えきれなくなり、夜通し独りで祈りました。どれほど祈ったでしょうか。ふとある聖書の箇所が、意識の中で熱く輝きだしました。

 いちじくの木は花咲かず、ぶどうの木は実らず、オリブの木の産はむなしくなり、田畑は食物を生ぜず、おりには羊が絶え、牛舎には牛がいなくなる。しかし、わたしは主によって楽しみ、わが救いの神によって喜ぶ。主なる神はわたしの力であって、わたしの足を雌じかの足のようにし、わたしに高い所を歩ませられる。
(ハバクク書3章17〜19節)

 この聖句が、乾ききってひびだらけの魂に潤うようにしみ込んできました。夢に力を費やしても結果を掴めなかった事実は変わりません。それでも、まだ見ぬ喜びの高みを見せてくださる! 砕けた心に天の報いが用意されている。涙が溢れてなりませんでした。

 その喜びの高みを知ったのは、間もなくでした。進路に悩んでカナダに来たことのある友と、数年ぶりに東京で会いました。私も人生に悩み、日本に来て救われた経験を証しするうちに、彼がぽろぽろ泣きはじめました。ずっと祈りに覚えていた彼と、喜びの涙を分かち合える時が来るとは! 地上の栄光は何一つない自分でも、キリストを伝えることだけはできる。私の生きる道は定まりました。

芋掘りから始まった伝道

芋畑にて

 キリスト聖書塾で学んで3年が経ち、まだ幕屋のない愛媛県四国中央市に行くことになりました。

 しかし、知人もおらず、ただでさえ外国籍の私には、なかなか仕事がありません。たまたま知り合った農家で、芋掘りのお手伝いをすることになりました。

 指示をされるも、「コラー、なんしよん! ほれみんかい。どんならん!」。方言が理解できない。しかし、何も持たずに四国に伝道に来た経緯を知ると、猛烈に応援してくださり、毎日お芋やお米を持たせてくださいました。そして仕事の後、持ち物を聖書と『生命の光』に替えて出かける日々が続きました。

 どんなに不遇な運命にある人も、キリストの御名を呼んで祈ることを通し、病を乗り越える方、深い心の傷が癒やされる方。1人、2人と神を賛美する人が現れてきました。母親を突然亡くされたある男性と一緒に祈った時、声を上げて泣かれ、「心が清々しくなりました。人前で涙を見せまいと思っていたのに……。母が天で喜んでいるのがわかりました」と言われました。若く未熟な私ですが、福音を伝える喜びを少しずつ味わいはじめていました。

 しばらく経ったある日、故郷の友人から4年ぶりに突然連絡がありました、「今度、友達4人で日本へ行くけれども、大吾を訪ねたいと思っています」と。

 「どうしてぼくなんかのために?」、振り切ったつもりでいた友人からの、突然の連絡に驚きました。

 どう迎えたらいいのか? 彼らは私がクリスチャンであることは知っていましたが、なぜ祈りつづけた夢が破れてもなお、キリストを伝えたいのか、私の信仰の内容について明かしたことはありませんでした。

 「本当なら観光に連れていきたいけど、日曜日はわが家で集会があります。出てみないか」と聞きましたら、快く「出たい」と返事をくれました。

ハバクク書の実現

 ついに再会を果たし、日曜日を迎えました。英語を話せるのが私だけなので、私が英語に同時通訳しました。集った幕屋の1人ひとりが、涙ながらにキリストに出会った人生の転換点を話されました。

 私も話しました。私の父は突然の病を通し、亡くなる3カ月前に幕屋に集うようになり、聖霊を注がれて死の恐怖から喜びの世界に移されました。そして、喜びを自分だけにとどめず、明日があるかわからない中、決死の思いで私を幕屋の集会に送り出しました。そこで私も同じように聖霊を注がれ、回心しました。

 友人たちは真剣に耳を傾けてくれました。最後に祈ると、天に吸い上げられるような場となりました。友人たちも、素直にその雰囲気に魂を任せました。

 翌日、友人の一人が、「大吾たちの祈りには、ぼくの教会にはないパッションがあった。ぼくが求めていた本当の祈りに触れられた」と言いました。原始福音の祈りは、実に言語を超えて、人と神をつなぎました。

 全く希望を見失った者をこそ、キリストは見出してくださいます。思いどおりにならなかった私ですが、ハバクク書の言葉どおり、人の労苦は報われないようでも、神様は一層高い喜びを用意されていました。

 5年前ボロボロだった私の心は今、救い主の御名を叫ばずにおれません。

(2018年 四国中央市在住)