村松 みち子
聞き手:町山 峰子

 『生命の光』785・786号に掲載されている、手島郁郎先生の聖書講話を実際にお聴きになり、大きな影響を受けられた、村松みち子さんにお話を伺いました。
 埼玉県入間市の村松さんのお宅に伺うのは2年ぶりでした。飼い猫のポンちゃんも、今日は穏やかに食卓の下で昼寝をしています。

村松みち子 うれしいわ。ああ、あなたとこうして話していても、お互いの中のキリストが息づいて、喜びだしているのがわかるわね。

町山峰子 私もうれしいです。今日はありがとうございます。早速ですが、45年前(1973年)、手島先生の最後のご講義を、村松さんは実際にお聴きになられたと伺いました。そのことを少しお話しくださいますか。

村松 私の聖書のヨハネ伝8章を開くと、小さな文字で「手島先生最後のご講義」と書いてあります。当時、私は40代でした。

 もしわたしの言葉のうちにとどまっておるなら、あなたがたは、ほんとうにわたしの弟子なのである。
(ヨハネ伝8章31節)

 キリストの御言葉の中に留まって、メノー(ギリシア語原文で「留まる」の意)して生きる。これが手島先生の遺言だと思って、それが今に続いています。

 初めは、私がキリストの御言葉の中に留まるんだと思っていました。けれども、時を経るに従って、そうではなく、キリストのほうから私の許にやって来て、私を覆い、めぐり取り囲んでくださる。そのことを実感するようになりました。

 朝に夕に、「天のお父様……」と思っているだけで覆ってくる生命があります。こんなにちっちゃな自分でも光の中にいることを発見するんですね。キリストが私をそこに留めおいてくださっていると感じます。

 87歳になった今は、子供のように何もできなくなりました。入浴のタオルも、1枚では重たくて持てないので、半分に切って使っています。そんな弱った体であっても、内側にはキリストの喜びがあります。それしか、今はないですね。

 車に乗せてもらって、持ち運ばれるようにして、遠方の集会に行くこともあります。中には、祈り方もわからないような人もおられます。

 そういう時、言葉で何かを話すのではなく、私自身が神様を渇き求めて傍らに座っていると、その方も一緒に深く祈るようになっていきます。赤裸々に魂の話をされる場になる時、来てよかったなと思います。

 若い時は、そこが聖なる場になるために、私が証ししなければ、と思っていましたが、今はそうでない。私をめぐり囲んでくださるキリストが為してくださる。聖日集会でも、たった1人でも神様をひたすらに求めて座る人がいると、場が変わってくるんです。

町山 【話している最中も、村松さんにはいろいろな悩みをもつ人から電話がかかってきます。それに毅然とした声で答えておられました。】

誰もが集い祈る場に

幕屋の子供と共に

村松 ここが祈りの場になったのは、手島先生が亡くなられてからです。「神様、これからどう生きていったらいいでしょうか」と祈っていたら、夕陽がさーっとわが家の内を照らしたんです。ああ、ここを祈りの場としていくんだ、そう思いました。そして、ひたすら祈りはじめました。

 そうしているうちに、人生に行き詰まった青年が2人、やって来ました。苦しんでいるご婦人や、若者がここに来ては、祈り、立ち上がっていきました。

 つい最近も幕屋の4人の小中学生が、わが家に泊まりに来ました。祈ったり、歌ったり、喜んでいる姿が尊くてね。信仰の世界は大人も子供も関係ないです。

御声に導かれて生きる

町山 天からの御声を聴かれたことはありますか。

村松 ありますね。私の場合は、はっきりとしていて、何月何日、何時何分というほどです。必ず神様の臨在が感じられて、やさしい声が響きますね。

「最後まで原始福音であれ」

 この言葉も、私の内側に響いてきたものでした。

 手島先生の亡き後、キリストを中心と言いつつも、各地では自分を中心に幕屋を導く人も出てきて、ばらばらになりそうでした。そういう激しい闘いの中で、「原始福音であれ」という御声は、私にというより、幕屋の群れに語られた言葉だと思うようになりました。原始福音は、自分を捨てて、キリストに聴き従っていく信仰です。

 また、1989年の初夢に、メノラー(七枝の燭台)と共に爛々(らんらん)とした瞳の手島先生が現れて、「ろうそくの蝋のように、身を燃やして生きる者であれ」と声が響きました。目を覚まして書きつけました。

蝋涙(ろうるい)となりて廻りを照らせよと
師のまなざしの熱き初夢

 いいことばかりではありません。苦しみもあります。主人が亡くなった後、長年私を支えてくれた養女に、10年ほど前に先立たれました。続いて親しい友人が2人亡くなった時、床に伏して起き上がれなくなりました。食事ものどを通らなくなり、20キロ台まで体重が落ちました。立ち上がることができたのは、天からの御声が響いてきた時からでした。

 キリストの中で祈る時に、キリストがすべてを教えてくださる。そして年々、魂は成長させられていきます。私は、もう地上で残された期間が少ないと思う時に、どうしたらキリストの御愛にお応えできるか、この喜びをどう表したらいいか、と思います。

なみだもめぐみに むくいがたし
この身をささぐる ほかはあらじ (賛美歌より)

という世界ですね。

(2018年 入間市在住)