南 嘉久
 (福岡県原爆被害者団体協議会事務局長)

爆心地近くを走る機関車(林重男氏撮影 長崎原爆資料館所蔵)

 昭和20年8月9日午前11時2分。

 アメリカのB29から投下された原子爆弾によって、長崎は火の海となりました。

 燃え盛る炎と、負傷した人々の叫びが上がる中、突然、機関車の汽笛が響きわたりました。負傷者救援のために、瓦礫をかき分けてやって来たのです。

 汽笛の音に希望を抱いた多くの負傷者が、線路に集まってきました。原爆投下から、わずか2時間後のことでした。その日に運行された列車は4本。約3500人の負傷者を、病院のある諫早(いさはや)や大村の駅まで運んだ、といわれています。

 しかし、救援列車が到達できたのは、爆心地から約1キロメートルの地点(照圓寺〔しょうえんじ〕付近)まででした。その先は橋桁がずれ、線路が瓦礫で埋まっていたのです。それで、国鉄(当時)の職員が昼夜を分かたず作業し、3日で全線を開通させました。

 その時に、救援列車や鉄道復旧の運行指揮に携わったのが、私の父・南勇一でした。

 当時、父の先妻はすでに他界しており、父が男手一つで5人の子供を育てていました。父としては、官舎に残していた子供のことが心配でならなかったと思います。父の職場からは、官舎のある地域に火の手が上がっているようすが見えたはずです。

 しかし、父は職責を果たすために、現場に残って奮闘しました。それは、父だけではありません。職員の多くが死傷し、また家族を失いました。それでも、動ける者で救援列車を運行し、昼夜を問わずに復旧作業に取り組んだのでした。

 父は仕事の合間や、終わった後に、子供たちを捜したようです。5歳と7歳の娘たちは遺体で見つかり、10歳の次男は防空壕にいました。13歳の長女は長与駅の救護所にいたので、父は生きていた次男に会わせてあげようと駆けつけました。

 でも長女は、「おとうちゃんはまだでしょうか?」と言いながら、父が着く30分前に息を引き取っていました。次男も数日後に亡くなりました。

 原子野を歩き回った父は、強い放射能を浴び、生涯にわたって放射線障害に苦しみました。

 戦後、父は同じく被爆体験をした母と再婚し、私を含めて4人の子供をもうけました。

救援列車が走った線路と照圓寺

 私には、戦争体験や被爆体験はありません。でも、被爆2世の私は「心の被爆者」として生きてきました。

 私が高校の時に、同級生が放射線の影響と見られる白血病で亡くなりました。今でもそうですが、放射線によってどのような影響が出るかわからないため、健康不安や遺伝子への影響不安、偏見や差別などといった「2世問題」があります。

 それでも私たちを生み、育ててくれた両親に感謝しています。両親は私たち子供の中に、生きる喜びと希望を見出してくれたのだと思います。

長姉の亡くなった救護所があった長与駅前のモニュメント

 私が20歳の時に、父は亡くなりました。その時、私は父の魂が離れる瞬間を見せられました。人の人生を司(つかさど)っている大きな存在がおられることを見せつけられた、厳かな時でした。それ以来、私は目に見えない世界を思いつつ生きてきました。

 4年前(2014年)、私は最愛の伴侶を亡くし、さらに魂について深く思わされるようになりました。その時に、『生命の光』誌に出合い、「永遠の生命」という言葉を見つけました。その言葉に惹き付けられて、幕屋の集会に参加するようになりました。

 救援列車の汽笛は、地獄のような原子野に響いた、唯一の希望だったと思います。「永遠の生命」ということは、私にはまだ問いです。でも、目に見えない世界からの呼び声が、この汽笛のように私にかけられているのを感じています。

 先日、墓参りをした時には、父や兄姉たちの魂が喜んでいることを初めて感じました。魂を救ってくださる生命がある、この希望が私の中に芽生えてきていることが、感謝です。

(2018年)