大正13年(1924年)、私が在学していた熊本県立商業学校に、若いアメリカ婦人で、エリザベス・H・キルバンという名の宣教師が英語教師として赴任してきました。なにしろ男ばかりの学校に、赤いタイトスカートをはいた西洋婦人、先生も生徒もドギモを抜かれました。みんなは好奇の目をもってその一挙一動を注視しましたが、後には謙虚でやさしいキルバン先生を心から敬愛するようになりました。……

 その後、第2次大戦が始まる前に、全アメリカ人に米国政府から帰国命令がありましたが、ミス・キルバンは一身の危険もかえりみず、日本に踏み留まられました。やがて終戦となっても、戦後の乏しい日本で私たちと飢餓をともにされ、ヘリコプターで救恤(きゅうじゅつ)物資が送られてくると、風呂敷いっぱいに包んで困窮者に配ってまわっておられ、再び熊本でお会いしました。……非常に皇室のことを心配して、アメリカの大統領に直接交渉してでも、天皇陛下をお守りしようと決意されました。……

 このような勇気ある生き方ができたのは、荘厳な富士山の神秘に打たれて、神の声を聴く人となられたからでした。その時以来、「来留伴(キルバン)富士恵」と名も改めて、神に霊導され、神に聴いて生きる生涯に入られました。神は語る! 神に聴いて、神と偕に生きる人が、いかに強く、尊くありうるか! 聖霊による回心こそ、その秘密力であります。

(手島郁郎・『生命の光』 1971年5月第248号)

 日本と日本人を心から愛したアメリカの婦人宣教師、通称ミス・キルバンは、大正8年(1919年)に横浜の土を踏みました。日本を知るためにまず日本語を習い、日本の歴史、文学、芸術などを熱心に学びました。そして熊本を振り出しに、仙台、札幌、函館、東京などの教会や日曜学校で、また英語教師として身を粉にして働きました。

 仙台時代のミス・キルバンは、山形へもよく伝道に出かけました。この時、天童の教会でキリストの信仰に導かれた人が、一昨年(1994年)、91歳で召天された山形幕屋の相澤精さんです。相澤さんは、「キルバン先生のお話を聞き、わが心定まれり。昭和8年(1933年)」と聖書に記しています。

 仙台に赴任して間もなく、ミス・キルバンは伝道に行き詰まり、心身に不調をきたし、ひと夏を御殿場で静養しました。富士の霊感を受けて立ち上がることができたのは、その時のことです。ミス・キルバンは8年後に、日本語で次のような一文を書いています。

 ……もう自分の国へ帰ろうかと思ってその決心をしました。所が私の誕生日、8月4日に朝早く起きて、聖書を読みながら目をあげて富士山を見ました。丁度日が昇る時で日光が美しくさして居りました。その時「われ山にむかいて目をあぐ、わが扶助(たすけ)はいづこよりきたるや、わがたすけは天地をつくりたまへるエホバよりきたる」というみ言葉を思い出しました。私は天の造主で有る神様に大変近くなった様に感じました。重荷を負いながら自分の力にばかり頼って居りましたが、此の時すべての怖れ、疑い、過ち……を神様に委ねて、神様の御力によって働く決心をいたしました。……
 私の様なよわい者でも、じぶんをすっかりすてて、神様の御力と御導きを戴きますならば、此のお国の人々のために何か神様の御用が出来ると信じます。
(恵泉女学園新聞『恵泉』・昭和11年〔1936年〕9月17日)

 やがて戦雲急をつげ、メソジスト伝道会社から帰国命令が出されます。けれどもミス・キルバンは「『帰れ』という神の御声を聞かないのです」と言って、日本に留まりました。俸給がとだえることは覚悟の上です。それから収容所の生活が始まり、東京大空襲で収容所が焼けると、皆と手を取り合って着の身着のままで逃げました。その時、これで、日本の人々と同じ苦難を味わうことができた、と喜ぶミス・キルバンでした。

 終戦の1年ほど前のこと、日本の命運を案じて悶々とした一夜を過ごしていると、神様が語りかけられました。

 「日米ともに助かる道はある。それもただ一つ——すぐに戦争を止めること——連合軍が神のみ旨にかなう穏当な条件を出し、日本が天皇の名において受け入れること。祈れ、祈れ、速やかに戦争が終わるため、日本の真の救いと浄化のため、そして日本の皇室のために。お前が日本で永く伝道に献身したのも、日本を理解し愛するに至ったのも、日本に残留しているのも、命をかけてこの祈りをするためだ」

 そして昭和20年(1945年)8月15日、玉音放送に耳を傾けたミス・キルバンは、天皇陛下に神様の御心が響いたと心から喜びました。けれども収容所を出てみると、瓦礫(がれき)と焼け野原の東京……。「すみません、すみません、日本がこんな姿になってしまって——私たち宗教者が戦争を防ぐことができなくて、私ほんとうにすまない……」と、むせび泣くミス・キルバンでした。

 「戦争は終わった。しかし霊の戦いはこれからだ」と言うミス・キルバンは、焼けた教会を建て直し、孤児を救い、日本基督教団のGHQに対する渉外係として、夜を日に継いで働きました。つぎの当たった衣服に麦飯弁当、そして一人祈るミス・キルバン……とうとう病に倒れ、昭和21年(1946年)6月にやむなく本国へ帰国となりました。シアトルの埠頭(ふとう)で迎える妹のメリーに付き添われ、そのまま病院へ運ばれました。

 その後、ミス・キルバンは故郷フィラデルフィアの妹の家で静養中、57歳の生涯を閉じました。最後まで、「母教会の青年たちに訴えてください、私の志をつぐ立派な人々が、たくさん海を渡って日本へ行ってくださるように」と懇願するのでした。

 日本の追悼会で賀川豊彦先生は、「ミス・キルバンは、日本に飛び来たった翼なき天使である」と賛えられました。また、「ミス・キルバンのような宣教師が日本に10人おったら、どんなにか日本の教会は変わるだろうに」と、その死を惜しまれました。

戦時中の抑留を終えた宣教師たち(左から3番目がミス・キルバン 誰よりもやせ細っている。右端は宣教師たちの身元引受け人となった恵泉女学園創立者の河井道子氏) ミス・キルバンは「収容所の4年間、聖書を読み祈祷を続けることが許されて、しあわせでした」と語った。

記:石井 直子