藤井 資啓

「幾度もためらい、幾度も拒み続けたが、遂に本誌を広く出そうと決心した。それは、私の周りに神を求めつつも神を知るによしなく、悩んでいる魂の叫びを聞くからである。かかる人の1人でも探し出して、神の光に導くよすがとも本誌がなれば、と思ったからである。……本誌は学問的発表や神学論や祭司主義の真似はやらない。また私達には出来ない。ただキリストの十字架と神の国の真理とを率直に伝え、人々を信仰に導く役割だけに限定したい。……」

 これは70年前の1948年10月、未だ敗戦の苦悩に呻く日本の片隅で創刊された『生命の光』第1号の後記に記されている、手島郁郎の言葉です。

 救いを求める魂に向け、家族が飢えに泣く過酷な経済状況の中で、ガリ版刷りになっても発刊しつづけてきたのが、この『生命の光』でした。

 それはひとえに、聖書そのままの福音、「原始福音を証しせよ!」との、天からの強制があったからです。そして、手島の命がけの伝道の中で、キリストはご自身が今もありありと生きて働く生命であることを表しつづけられたのです。

霊的渇仰に応える書

 手島が天に帰った後も、救いを求める魂の叫びは時代とともに強まってきています。それゆえ、天から託された願いに応えるべく、『生命の光』は今日まで絶えることなく、発刊しつづけられてきました。

 読者の方々から、毎月多くのお便りを頂きます。

 「『生命の光』の文字から神の息吹が魂に降(くだ)ってきて、まるで砂漠に雨がしみこむように生き返りました」

 「『生命の光』は一言でいえば神の霊の本です。飢え渇いた日本の魂の上に注がれる霊の本です」等々。

 これらのお手紙を読むにつけ、全国津々浦々で、天の生命に渇く、まだお会いしたことのない方々に、本誌が届くことを祈りつつ、編集しています。

 人間の苦悩を根本から解決するのは、美しい言葉を連ねた思想や、頭で理解して納得するような理屈の信仰ではありません。天からの、ありありとした霊的生命に触れること以外にないのです。

 私は若き日、深刻な心の病から人生に絶望し、死を求めていました。その時、連れてゆかれた幕屋の集会の祈りの中で、天からの聖霊の注ぎを受けて、闇から光へと人生が一変する体験を得ました。

 このような一人ひとりの救いの背後で、キリストご自身が、どんなに大きな御愛と憐れみをもって生命を注いでくださっているかを教えられ、感謝が溢れます。

 こうしてキリストに贖われ、運命を転換された者たちが、この信仰に生きる喜びを明確な言葉で証ししてゆくことが、本誌の使命だと思っています。

常に新しくある祈り

 70年とは決して短い年月ではありません。時の経過の中で、多くの宗教運動が新鮮で力強い初期の活力を失ってしまうのは、往々にして、組織化とマンネリ化の中で安定してしまうことに問題があります。また、宗教という本来霊的なものを、人間的な活動にすり替えてしまうときに、宗教運動は形骸化し、無力化してしまいます。

 これは決して他人事でなく、幕屋運動もまた然りです。常に新しくあるために、原点に立ち帰り、天を揺する祈りをもって、現状に果敢に挑戦する心を失ってはならないと思います。本誌の編集に携わる私にも、いつも問われている課題です。

 「かつてあった」ではなく、現代においても、神様の新鮮な生命が、ありありと人間の魂に脈打つという信仰の現実がないのであれば、その証しを綴る本誌の使命を全うすることはできません。

 編集人の一人として、『生命の光』は今後も、どこどこまでも、聖書の信仰の水準を目指してゆきたいと願います。そして読者の魂に、開いただけで誌面から霊的生命が伝わってゆくような、生きた信仰の証しを綴ってゆくことを目指してまいります。

(2018年)