原始福音
キリストの幕屋

信仰の証し

福音は納屋の2階から

 

竹内 洋司

 「お母さん、ぼくはもう明日からは生きられん。今までがんばってきたけど、ゆるして……」。そして、明日は電車に飛び込んで死のう、と決心しました。

 それは、私が工場のローラープレスに右腕を巻き込まれ、片腕を失ってから一年くらい経った頃です。もうこれ以上生きられぬ! というところまで追い込まれて毎晩、七転八倒、不具者になった者にしかわからない屈辱感に悶え苦しんでいました。

 それまで私は、高校を出て技術専門学校へ行くための資金稼ぎに、工場で働いていました。しかし、その事故で一瞬にして、夢も希望も失ってしまいました。利き腕を失った不自由さとともに、道を歩いていても、片腕の私を見る人々の視線が胸に刺さり、苦 しくて生きてゆくことが苦痛だったんです。

ぼくは生きられる!

 その夜のことです。死のうと腹を決めたら、心が少し静まって眠気がさしてきました。うとうとした時、夢を見たのです。不思議な夢でした。それは、今思えば真っ白い衣が光を放っているキリストご自身でした。澄んだ眼差しでじっと私を見つめられ、「我が許(もと)に来たれ!」と御声をかけてくださいました。

 その頃、兄は幕屋の集会に行きはじめていたので、何度も私を誘ってくれていました。苦しんでいた私を見かねて、聖書を読んでくれたこともあります。でも私は、「神様がいたら、ぼくはこのような目に遭うものか!」と言って拒んでいました。

 そんな私でしたから、その夢には驚きました。「神様がおられた!」と叫びながら目が覚めました。すると今まで「死ぬ以外に楽になれない」とがんじがらめになっていた心が、解き放たれたんです。「ぼくは生きられる!」という思いが、どこからか湧き起こってきました。

 そのような私に兄はもう一度、「洋司、やっぱり幕屋の集会に行こう」と声をかけてくれました。強がりな私は、そんな不思議な夢を見ていたのに、「騙されたつもりで、一回行ってみるか」などと可愛げのないことを言って、初めて大阪の幕屋の集会に出ました。今から思えば、なんと不遜な恥ずかしい姿だったと思います。

 4回目の集会で、手島郁郎先生は、キリストがたった5つのパンと2匹の魚しかなくても、神様に感謝してそれを割かれた時、5千人の人が食べて満足する奇跡が起きた、というお話をされました。

 そのお話は、私の心に鋭く切り込んできました。「キリストですら感謝された。そうだ! まず感謝して生きてみよう!」という思いが込み上げてきました。その場で祈りはじめると、お腹(なか)の底か

ら生命(いのち)の喜びが湧いてきて、嬉しくて嬉しくてその場で泣き伏し、救いに入れられたことを実感しました。

 この時以来、キリストが確実に助け導き、私と共にいてくださることを日々、体感するようになりました。

伝道に遣わされる

 それから7年が過ぎ、新しい片腕ともいうべき伴侶を与えられ、感謝の日々を過ごしていました。そんな私に突然、手島先生からお話がありました。それは、「隠岐諸島の渡辺弁治郎さんという96歳の方から手紙をもらった。君がここへ伝道に行って手伝うよう に」とのことです。隠岐諸島がどこにあるのかもわかりませんでしたが、「はいっ」と答えました。

 その頃、家内はそれまで3度流産して、4度目の妊娠2カ月で絶対安静の身でした。しかしそのようなことを案じている暇もなく、送り出されました。

 渡辺さんのおられる隠岐諸島の知夫里(ちぶり)島は、人口が当時わずか千人で、狸が3千匹いるといわれた島でした。着いて渡辺さんの家の納屋の2階に案内されました。掃除も久しくされていない畳の上を枯れ草が舞い、薄暗い電球が一つ灯っています。やがて、下から娘とおじいさんの怒鳴り声が聞こえてきます。

「どうして、また伝道者を呼んだんですか!」と娘が大声で言うと、おじいさんも怒って、「わしは手島先生に愚痴を手紙に書いて送っただけで、伝道者に来てくれと言った覚えはないんだ。先生が勝手によこされたんだ!」と。それを傍らから、ある幕屋の方がなだめて、「もう今さら、そんなことを言っても竹内さんが来てしまっているんだから、これからのことを考えましょう」

こんなやり取りが2時間以上続いていました。たしかに、先生からお預かりした手紙には、「伝道者に来てほしい」とは一言も書いてありませんでした。たまらなくなって、私はキリストに祈りました。祈るとキリストが側近くにやって来てくださるのを感じるのですが、現状を見ると、心は風前の灯のようになり、また、島流しになった流人のような寂しい気持ちになってしまいました。

「どうして食ってゆくのか?」

 翌日、夜になると、おじいさんとのつきあいで7、8名の方が集まってこられました。その方たちに、私は救われた感動を熱く語ったのですが、誰も真剣に聴いてくれないんです。途中から、凄いいびきをかいて眠る人、ごそごそ、きょろきょろする人、早く終わってくれと言いたげです。胃が焼けつくような気持ちになりながら、会を終わりました。その中の一人で、村会議員の方が残られました。

 そして言われるのに、「あんたは、どうして食ってゆくつもりかの? 本当の信者なんて、見たらわかるとおり、誰もおりゃせんし、皆もこの百歳近いおじいさんが、杖ついて『集会に来てください』と毎週、廻ってくるから気の毒がって、おじいさんが生きとる間はおつきあいしましょう、という人ばかりだ。

 とにかく、この島には働こうにも第一、会社というものがない。役場と郵便局と漁協とそれくらいしかない。前に来た伝道者は土方して働いておられたが、あんたは見たら片腕じゃし、土方もできんじゃろう。おじいさんもアメリカの長男からわずかばかり仕送りしてもろうて、細々と暮らしとるんじゃから、とてもあんたたち夫婦を食わしてゆくわけにはいかんと思うんじゃが」とずけずけ生言われます。

 さすがにムカッとして、「私のことは何も心配要りません。私の神様は生きておられますから、皆さんに迷惑をかけず、必ず豊かに養ってくださいます」とはっきり申し上げました。

悲しみは希望の門に

 そのごとく、隠岐に在住の間、ミシンのセールスや、百科事典のセールスをしました。そうしたら不思議なくらい売れて売れて豊かに祝され、キリストが生きていたもうことを証ししてくださいました。

 伝道も、初めは誰も信仰を求める者がいないような状況でしたが、やがて2ヶ月経った6月に、隠岐島でも最も過疎の激しい古海(うるみ)部落で、癲癇(てんかん)に苦しんでいる一人の青年に出会いました。彼は、ただ一度の集会で完全に癒やされました。続いてあるご婦人も救いの体験に入られ、家内はこの方の家でお産をさせていただきました。

 9月には、船が転覆してご主人を亡くされたご婦人が導かれ、翌年2月には息子を取り上げてくださった産婆さんが幕屋に来られ、次々嬉しいことが起こってくるようになりました。

 そうしているうちに翌年の5月、手島先生がやって来られ、集会を開いてくださったこともあります。その集会には、隠岐だけでも40名近い方々が集われ、渡辺さんのお宅が超満員となり、夢のようなひとときでした。

 この隠岐の伝道を通して、キリストの聖前に立って、どんな矛盾の中をも、祈りつつ進む時、キリストは必ず応えてくださることを知りました。その後、各地を伝道してきましたが、キリストはいつも共に歩んでくださいました。これからも、どこにあってもキリストに信じ、歩んでゆきたいです。

(東京都在住)