完成後、八田さんはフィリピンの開発にいくことになりました。しかし、その船が東シナ海でアメリカ軍に沈められ、57歳で亡くなります。昭和17年のことでした。
やがて戦争が終わると、日本人は台湾から引き揚げなければなりませんでした。16歳で嫁いでから、喜びも悲しみも共にしてきた外代樹(とよき)夫人は、ご主人が人生のすべてを注いで愛した台湾と烏山頭を去ることができず、ダムの放水口に身を投げて、ご主人のあとを追いました。
八田さんご夫妻がささげた命は、一粒の麦のように30倍、50倍、100倍と豊かに台湾に実っています。毎年、ダムが完成した5月8日になると、嘉南平野の農家の人々が、収穫した農産物をもってダムを眺める丘の木陰に、おおぜい集まってきます。そして、八田さんの銅像とご夫妻のお墓の前で感謝をささげています。
私は戦後生まれの者ですが、その墓前に立ったとき、胸に次の言葉が迫ってきました。
「八紘(あめのした)を掩(おお)いて宇(いえ)と為(な)す」。すべての国々に分け隔てなく天の慈しみを施し、一つの家のように為す、という言葉です。
台湾をめぐって、各地に八田さんと同じように、都市整備、衛生、教育、農業に命をささげて尽くした日本人がいたことに驚きました。これらをなしたのは、日本人の中に流れていた温かい精神であったことを知りました。
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