八田さんは東京帝国大学の土木科を卒業すると、明治43年(1910年)台湾の農地開発計画を任されます。24歳の時です。
4年の年月をかけて、台湾じゅうの山や谷、原野を歩いて、ダム建設地の調査をします。赤痢やマラリアといった恐ろしい伝染病の潜む所にも、先頭を切って分け入っていきました。
そして、現在の場所を選び、ダムを造って嘉南平野に水路を張りめぐらす計画を立てました。皆、その計画書を見て驚きました。台湾総督府の予算の6分の1の資金を必要としたのです。
「八田くん、これでは政府から、工事の許可がおりないぞ。もう少し縮小したらどうか」
「いいえ、水路のとどく場所と、とどかない場所の農民とでは、貧富の差が生じます。私は、嘉南平野に住むすべての農民に、同じように水を引いてあげたいのです」
八田さんの熱意は総督府と日本政府を動かし、大正9年(1920年)に工事が始まりました。
マラリアは猛威を振るっていました。そのため600人に近い日本人兵士や、乃木総督のお母さんも病死します。ダム工事現場で働く労働者も、例外ではありませんでした。
八田さんは、原生林の広がる未開地で働く台湾人の労働者の健康を気づかい、定期的に薬を配りました。しかし、彼らは副作用を嫌って飲みませんでした。
八田さんは一人ひとりを並ばせ、直接、口に丸薬を入れますが、みんなは後で道に吐き捨て、道はあられが降ったようになったそうです。それを知ると、飛んでいって叱りつけました。ついに最後には彼らの家の一軒一軒を訪ね、薬を飲ませ、ちゃんと彼らが飲みこむまでは、その家を立ち去りませんでした。そのおかげで、マラリアにかかる人は少なくなります。
3年目には、トンネルの工事でガス爆発が起きました。50数名が亡くなり、多くの重傷者が出ました。八田さんは、すぐに台湾人の犠牲者の家の一軒一軒を回り、心から弔いと慰めの言葉を伝えました。遺族たちは、その言葉を押しいただくようにして声を上げて泣きました。
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八田さんも責任を重くうけとめ、工事を中断しなければなりませんでした。しかし、「八田さん、元気を出してやりましょう」と励ましたのは、台湾の人々でした。八田さんがどんなに台湾を愛しているかを、知っていたからです。
こうして烏山頭水庫は東洋一のダムとして、10年の歳月をかけて、昭和5年にできあがります。
そして、八田さんの望みどおり、網の目のように引かれた水路によって、水は嘉南平野の全域にとどけられました。その水路の総延長は1万6千キロで、万里の長城の6倍に達します。 |
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ダムの放水口 |
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