原始福音
キリストの幕屋

聖書講話 <ルカ伝>

真の隣人愛とは

 
 
手 島 郁 郎  (1910〜1973年)
 
 

 前回はルカ伝10章20節まで学びました。イエス・キリストが72人の弟子たちを伝道に遣わされたら、彼らもご自分がなさるのと同様な驚くべき業をやってのけて帰ってきた。それで、イエス様が大喜びなさったという場面でした。今日は、その続きから読んでまいります。

律法学者の問い

25 するとそこへ、ある律法学者が現れ、イエスを試みようとして言った、「先生、何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」。26 彼に言われた、「律法にはなんと書いてあるか。あなたはどう読むか」。27 彼は答えて言った、「『心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ』。また、『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』とあります」。28 彼に言われた、「あなたの答は正しい。そのとおり行いなさい。そうすれば、いのちが得られる」
                                 (ルカ伝10章25〜28節)

 キリストが弟子たちを見て、「よかったね、大発見をしたんだよ」と言って喜び合っておられるところに、律法学者がやって来て「永遠の生命を受け継ぐには何をなすべきか」と尋ねた。
 キリストはその者に言われた、「律法には何と書いてあるか」と。律法というのは、旧約聖書のことです。「何と書いてあるか」は、原文のギリシア語では「何が書かれているか」です。
 律法学者は「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」と答えましたが、ここは原文で「あなたの心のすべてで、あなたの精神のすべてで、あなたの力のすべてで……」というふうに、「あなたの sou(スー)」という語が、心や精神という言葉についています。だから、ここは自分自身の身近なことと捉えるべきで、抽象的に捉えたらだめです。聖書には、何度も「あなたの、あなたの」と書かれている。
 宗教というものは全人格的な行動でして、よく「生活と信仰とは、どう関係あるんですか」などと言う人がいますが、それは全然違う。自分の生活全部が信仰なのです。
 また、「心をつくす」などと訳されていますが、これは「心のすべてで」と原文ではなっています。英語で言うなら all(オール)で、「精いっぱい」という字です。精いっぱい愛すること、精いっぱい生きている姿が宗教であって、そのように生きていないのは宗教ではありません。
 花というものは精いっぱい咲いている。生半可に咲くということはしません。命というものは精いっぱい自分を表現しております。同様に、キリストにおいても、精いっぱい行なってゆくことを宗教と言われたのであって、生半可なことは宗教でなかった。

議論より前に大切なこと

 またこの律法学者は、「自分を愛するように、あなたの隣人を愛せよ」の掟を挙げています。だから彼も、何が大事か知ってはいるんですね。
 すると、キリストは彼に言われた。「そのとおり行ないなさい。そうすれば、いのちが得られる」(28節)。「そのとおり」ではありません。原文では「それを行なえ」と、もっと強い言い方ですね。また、「いのちが得られる」ではありません。「生きるであろう」です。
 宗教で生きるということが、精いっぱい生きていること、つまり神の生命を精いっぱい咲かせて生きていることであるならば、「どうすればよいのか」などという議論は起こらないはずです。花は議論しては生きておりません。
 私たちも、心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくし、すべてを忘れて永遠の生命に生きることが大事です。議論することは第二です。ですけれども、宗教家という人たちは、すぐ信仰を難しい議論のことにします。
 それでキリストは、「そのとおりやれ」と言われる。ところが、このあとに見るようになかなかそれができないんです。精いっぱい神を愛し、自分の隣人を愛して生きることができない。それが、永遠の生命で生きはじめた人間と、そうでない人間の一つの違いであります。

私の隣人とは誰か

29 すると彼は自分の立場を弁護しようと思って、イエスに言った、「では、わたしの隣り人とはだれのことですか」(29節)

 神を愛するということは目に見えないことですが、「汝の隣り人を愛しているかどうか」ということは、目に見える身近な問題です。
 宗教を考えごとや議論のこととしておる間は、生命がありません。だから、永遠の生命を受けるということを問いとしているのに、イエス様から「精いっぱい神を愛し、隣人を愛してゆきなさい」と言われると、この学者は「まず隣り人というものが何かがわからずに、どうして隣人を愛せますか。わかれば愛します」と言うのです。
 いつでしたか、この聖書の箇所について教友たちと座談会をしたことがあります。そうしたら東大を出たA君が、「隣人とは何ですか」と言って執拗に食い下がってきたことがありました。やっぱり倫理学や哲学、神学などを学んだ人は、どうしても議論のこととするんですね。
 イエス・キリストは、それに対して何と答えられたか。ここを見るとイエス・キリストという御方がよくわかります。決して議論にしておられない。いつも実例や譬え話をもって、誰にでもわかるような話をなさる。また、「隣人とは何ぞや」という問いに対し、「隣人とは何々である」と定義は与えられない。愛というものは定義できないんですね。
 しかし世の中には、一生かかって愛の哲学とか、愛の神学とかをやっている人がいる。でも、愛は議論される時に、もう愛ではありません。また、「あの人は、私を愛しているだろうか、愛していないだろうか」と疑いだした時に、もう愛はその人の心の中で殺されています。

よきサマリヤ人の譬え話

30 イエスが答えて言われた、「ある人がエルサレムからエリコに下って行く途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎ取り、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。31 するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、この人を見ると、向こう側を通って行った。32 同様に、レビ人もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。(30〜32節)

 ここに「エルサレムから下る」と書いてあるのは、エルサレムが海抜800メートルほどの高い山の上にある町だからです。一方のエリコという町は、地中海よりも数百メートル低い所にありますから、この道は、1000メートル以上も標高差のある坂になっています。ですから、「下る」というのですね。
 ある人が強盗に襲われ、叩かれて、半死半生で放っておかれた。そこに、エルサレムから祭司が下ってきた。たぶん一週間の勤めを終えて、やれやれ無事お勤めが済んだと、感謝しながら下りてきたのでしょう。だが祭司は、「この人を見ると、道の向こう側を通って行った」。原文では、「見ながらも」となっています。見て見ぬふりをしたのではないのです。
 また、レビ人も同じように道の向こう側を通っていった。レビ人というのは宗教的な家柄の人々です。祭司はレビ人から出ます。最も信仰の深い、宗教心の深いと思われる人たちが、向こう側を通っていった。
 レビ人の場合は、「下る」と書いてありませんから、たぶんエルサレムに上って、お宮詣でに行く途中だったのでしょう。当時から、血が出ている人間に触ると穢れるという思想がありました。それで、触らなかったのでしょう。

主イエスの問い

33 ところが、あるサマリヤ人が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、34 近寄ってきてその傷にオリブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。35 翌日、デナリ二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。36 この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」。37 彼が言った、「その人に慈悲深い行いをした人です」。そこでイエスは言われた、「あなたも行って同じようにしなさい」(33〜37節)

 サマリヤ人というのは、エルサレムと北のガリラヤの間にあるサマリヤ地方に住んでいた人たちで、新約聖書の時代より数百年前に、アッシリアによって植民されてきた異民族との混血民族です。純粋のユダヤ人ではないので、ユダヤ人たちは非常に軽蔑しておりました。あるサマリヤ人が旅をして、この倒れている人の所を通りかかり、彼を見て気の毒に思いました。「気の毒に思う」というより、これは「腸(はらわた) splagxna(スプランクナ)」という語から派生した動詞で、腸がよじれるようにも深い憐れみの情を催したのでしょう。
 傷の手当てをして、包帯をしてやり、自分のろばか何かに乗せて、宿屋に連れて行って介抱しました。「デナリ二つを取り出し」とあるが、デナリというのは大人の男の一日分の賃金に当たる金額です。二日分の給料を取り出して、宿屋の主人に手渡して、後を頼んで立ち去った。
 イエスが、「誰がこの中で隣人か」と問われると、律法学者は、「その人に慈悲深い行ないをした人です」と言った。サマリヤ人は下等民族だと思っているから、わざと婉曲な言い方をしております。それに対しイエスは言われた、「行け、そして行なえ、同様に」と。
 ここで隣人とは誰のことか、と問われたのに対して、キリストは譬え話をもって、わかったようなわからないような答え方をしておられます。「誰を隣人とすべきか」と問うけれども、答えは逆で、愛された者は誰が自分の隣人かということをよく知っているのです。
 「この人は私の隣人であるから、私は愛さねばならないんだ」と言って愛している間は、本当の愛ではない。真の愛は、我知らず愛しているものです。またこの旅人のように、自分に親切にしてくれてありがたいと感謝している者に、隣人というものがわかるのです。

愛は永遠の生命

 キリストは、「誰が3人のうち、隣人であったか。おまえたちがいちばん嫌うようなサマリヤ人、これこそ永遠の生命に生きた人である。精いっぱい、気の毒な人に尽くしている。それを見てわかる」と言われる。なぜならば、愛こそが永遠の生命の本質だからです。
 「誰が私の隣人ですか」と学者が言うときに、隣人というものがわかって、愛するのではない。愛とは惻隠(そくいん)の情というか、愛を流したくて尽くしたくてたまらない心であって、愛された者にだけ隣り人というものがわかるんだ。そう言わんばかりのイエス様のお話でありました。
 現代でも聖書学者が、信仰を、また愛ということを、隣人愛とか人類愛と言ってさかんに議論し、頭だけの空理、空論にしようとするときに、イエスの宗教は、人生の生きた事実や実例で、愛ということが何であるかを教えようとなさいます。隣人愛の定義を知るよりも、このサマリヤ人のごとくあれよと言われて、隣人愛に生きることを教えられました。
 ただ次から次へと、疑問から疑問にディスカッションのことにしておる間は、信仰はわからない。本をたくさん読んだからといって信仰はわかりません。永遠の生命に生きている者にわかるのです。生きていない者が、どれだけ研究したってわかるものではない。
 私は聖書講義をする場合にもほとんど、私の上に、また私の周囲に起こった出来事や届いた手紙など、実例をもってしか講義をしません。もちろん、他にいい例があればするけれども、しかし宗教というものは、私たちの卑近なことであって、決して高遠な理想ではないのです。

<以下略>

(1959年7月12日 熊本)

 

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