| イエス・キリストは、強盗と共に十字架につけられました。その側を通りかかった者たちは、頭を振りながらイエスを罵りました(マタイ伝27章)。
これがイエス・キリストの最後でした。どうしてイエス・キリストのような素晴らしい世界的な偉人を、人々は受け入れることができなかったのでしょうか。あまりに偉大な、あまりに優れた者を、一般の人々は受け入れることができない。それは、受け入れるに耐え難いからです。そして、そのことはますますひどくなってゆくと思います。 平凡な人間を目指す教育 終戦直後のことですが、進駐軍の軍政官、その他が日本の学校教育を指導しました。そして、「日本が戦争を起こしたりするのは、戦前の教育が悪かったのだ。『未は博士か大臣、大将か』という考えが間違っている。民主主義の時代において、大事なことは、みんなが平凡で善良な市民になることである」。このような教育目標をかかげて徹底的に指導しました。 そのような平凡を目指す教育が行なわれることに、私は非常な疑問を抱きました。今まで受けた教育は間違いだったのか。みんなが偉大になる必要はないのか。 しかし、このような誤った戦後の民主主義の教育というものが、今の全学連の騒ぎに発展していったのだ、と私は睨んでおります。民主主義教育というものは、立派な人間をつくりません。 立派な人間というものは、一人ひとりの大いなる自覚から生まれてくるのです。自覚を失わせて、規格品のような均一な人間をつくることが民主主義教育ならば、そこから尊い人材は出てきません。 戦後は、「民主主義」という言葉がひとつの偶像になりまして、非常に尊い主義かのように考えられてきました。 しかし、私は聖書を深く読めば読むはど、民主主義というものには反対です。 民主主義は、一つの政治形態としては良いでしょうが、それが最高だとは思いません。神に聴いて政治が行なわれることが理想です。愚かな人間がただ寄り集まって、その多数決で決めてゆくような政治社会が良い社会だとは思えません。そして、その傾向はますます強くなりました。 偉大な人間が偉大な文明を創る 19世紀から20世紀の初めにかけて、ずいぶん偉大な人間が世界に輩出しました。「ほんとうに人間は偉大だ」と思わしめるような者がおりました。それは発明家にしましても、医学者にしましても、また政治家にしましても、ずばぬけた人物がおりました。 日本には明治天皇のような、天を仰いで政(まつりごと)をなされる英邁な御方がおられました。偉大な人間がその社会を導いているときには、偉大な文明が生まれます。日本においては、明治時代がそうでした。しかし、そうでないときには、みんな知恵を絞って相談しますが、少しも良い社会にはなりません。 人間、偉大であるということが悪いことだろうか。そう思うと、民主主義に対して大きな疑問をもつのです。そういう民主主義の頭で聖書を読んでもわかりません。 「日本が民主主義として立派に完成するためには、キリスト教を受け入れる必要がある」という声があります。 しかし、聖書を読めば読むほど、私はそう思いません。聖書は神本位、神中心の社会ができることを説いているのであって、人民の知恵や常識、考えが通るような社会を考えてはおりません。 それも、人間が作った原理主義でなく、まず神にすべてを聴いて生きる者たちの社会、国家を造ることが、聖書の国家観、社会観であります。 (1969年6月) |
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